「嗚呼女子大生活番外編〜なぜジェンダーを嫌うのか」

(「響苑 vo2」http://jprl.org/ より。)

大学でジェンダーを学んで3年目を迎えた。ジェンダーからの批判、ジェンダーの自然化の過程など、一通り勉強をしてきたと思う。しかし、恥ずかしいことに、今もなおジェンダーについて簡潔明瞭に述べることができない。「文化的、社会的に構築された性別のこと」と、辞書どおりの無味乾燥な説明で無難に済ますが、これではジェンダーを知らない人が理解できるはずは、ない。ストンと心に落ちない。定義ですらこのような認識の程度である。どれだけの人が理解あるいはそれに基づく批判をしているのだろうか。如何わしいところだ。
 それにも関わらず、巷では安易に男女平等参画社会、ジェンダーフリーを唱える、遅れ出たフェミニスト が行政レベルでも多く出現していることに気づく。そのもっとも良い例として昨年度流行した「慎吾ママのオハロック」に関する一悶着を挙げたいと思う。
 ジェンダーフリー個人主義を狙いとする千葉県松戸市の「ふりーせる保育」が、「行き過ぎたジェンダーフリー」として衆議院青少年問題特別委員会で山谷えり子議員が取り上げ、問題になった。問題の実態例の一つが、運動会のダンスで使用したタレント香取慎吾の「慎吾ママのおはロック」は「母親がごはんをつくる歌詞はジェンダーフリーに反する」として、カラオケで演奏した、ということだそう。
 確かに、幼児時代から無意識的に性別役割分業規範に晒されていることは確かであり、それによって、自由な表現が規制・統制されてしまう可能性が大いにあるのならば、やはり不等な性別役割分業規範は是正すべき対象であるだろう。しかし、それが問題の根源だからといってそれに関する事象を全否定してゆくのは、かなり手荒であり、視野が狭まいとしかいえない。なぜならば、たとえば犯罪が、その根源を見つけそれを徹底的に排除すればよいのに対し、ジェンダーは多くの人々に(変更不可能な)「自然」として認識されているがために、ジェンダーを打ち壊す改革は、その性差の非自然を証明し、意識を百八十度転換させない限りは、ジェンダーフリーの思想は無条件の拒絶を受けざるを得ないのだ。すなわち、この事例でいうと、ジェンダーフリーに反するからと、母親役割(家事・育児)、父親役割(仕事のみ)、を記述するのを否定し排除するのではジェンダーの特質上、その問題性が認識されない。そのため、問題を可視化させるには、なぜその役割を固定化するのが問題なのかを考える契機を周囲に与え、その性別の自然が幻想であるって柔軟な思考が可能であることを論理的、実際的に示さない限り「いきすぎ」として軽視されてしまい、今回のように、「行き過ぎたジェンダーフリー」を批判的に議論する側も同様に、問題の次元がジェンダー問題の本質―すなわち問題は自然として問題化されないこと―に届くこともないのだ。
 ジェンダーを毛嫌いしてしまう気持ちに同感であると同時に、こういった毛嫌いの発生現にはならぬよう、日々勉学に精進したいものだ。