せっせとルーティンワーク

なんと気楽で楽しいのだろう。「お勉強」は全く苦痛じゃない。その代わり、本をあまり読まなくなったし、複雑なことについて考えるということもしなくなった。
大学にも行きたくないし、M1の人と話すのが面倒でまだ仲良くなっていないし。
受験生的によろしい兆候なのか、はたまた引きこもりの兆候なのか。

私自身どう感じているかというと、非常に心穏やかで、不眠も治ったし、運動も毎日刷るし、規則正しい生活して生き生きぴちぴちしている。
うん、どう考えても毎日の生活が楽しい。楽しい。

「感覚」が元に戻ってきたように思う。

大学時代(といってもほんの数ヶ月前までなのだが)将来についても、身近な勉強について無計画でいても全く平気だった。それは根拠のない自信と現在〜将来〜に対する曖昧な不安が常駐していたため、前進も後退もできずにいた(後退することはもちろん前進することをも恐れていた)のだと、今さらながら思う。
そして、この自己に対する「感覚」を鈍磨させていたのが、やはり、大学という空間、大学生という身分である(少なくとも私の場合は。きっと就職活動や公務員試験など将来をを意識し、社会人としての自分を考えられている人ならばそうではないだろう)。

今、大学院生という身分となり、その先に進むにしろ、就職するにしろ、たとえ今後の人生で変更があるかもしれないにしろ、進む方向をどちらかに決める必要が迫られている。ここで、初めてリアルに、自分の前に路がないことが分かった。
路を作るために、それはもう月単位で、実行していかなくてはタイムリミットに間に合わないことが分かった。「専攻を生かしたい」という希望をかなえるためには、その希望の実現の機会をわずかでも掴むためには、今、やるしかない。

命綱が外され、自分の足元の脆さに気づくことで、「今」に対する「感覚」がよみがえった。

まったく、いったい今までどこを見て歩いてきたのだろうか。