ブログやウェブ日記はいかにして読まれるのか

ブログやウェブ日記に対する諸行動は
①自分の日記を「読む」
②自分の日記が「読まれる」
③他人の日記が「読める」
である。
(「第3章メディアと自己表現」川上善郎編『情報行動の社会心理学北大路書房 2001年)

読み手の積極性

こうして考えると、読み手は非常に積極的な読みを行っていると言える。それは、インターネットが発信型メディアでないということに起因するからではあるが*1。しかし、そうだとしてもウェブ日記やブログをアンテナに入れるなどをして日記の更新を欠かさずチェックする、記事にコメントやトラックバックをして自分のコメントと呼応させるといった行為が広く行われていることを考えると、「読む」という行為の積極性と、その積極性は「読む」ことのみに動機付けられているのではないのと考えられる。

そこで自分のウェブ日記に対する諸行動を観察してみたところ

  1. 覗き見的な気分でこっそり日常を観察している場合。たいていそういうウェブ日記の作者は身近な存在ではない。私の場合、そのようなウェブログとその作者に対して憧れが含まれているが、反対に非常に敵対していたり、嫌っている文章を書くウェブ日記もしっかりチェックしている。(これは性格的なものだね)また、知り合いではあるがあまりあわない人のウェブ日記もその人の動向が気になって(文章が楽しいからではなくて)読んでいる。
  2. 自分の身近な人のウェブ日記を読む場合。読んだ後は、オンライン、オフライン問わず話題に出し、コメントしていることがある。
  3. ジェンダーや家族関係など自分の関心のあるブログを読む場合。ほとんど批判的に読み、自分のブログに意見や感想をかくことを予期しながら読んでいる。また、そのブログへ付いたトラックバックやリンクやキーワードを時間があれば読む。
  4. 必要な情報を得ようとしたとき、たまたまウェブ日記やブログであった場合。これも時間があればだが、そのブログを書いている人の属性を確認し、その後他の文章を読む。この場合に限らず、私は書き手の属性を気にしている。

という感じだった。

面白いから、知り合いだから、検索が呼び出したから…
このように書き出してみて分かるのは、私にとってブログを読むことは宝探しのようなもので、決して目的意識を持って必要としている情報を見つけようと読み込んではいないことである。それなのに、なぜ読むのか?

主体的に読むのか、読まされているのか?

私たちがディスプレイの前にいくら長時間でも座り続けられているのは、

そこに座っていられるという事実そのものが、私たちが「贈り物の受益者」であるということを、言葉を換えて言えば、無数の他者に繋がり、彼らからの贈り物を享受し、彼らに承認され受け容れられている存在であることを実感させてくれるからである。
内田樹「史上最弱のブロガー」『ユリイカ』2005年4月)

「読む」という行為は無数の他者からの「贈り物」を享受することには成しえないという事実が、「繋がっている」という実感を確信させる、と言いかえられる。

観念的には良くわかるが、実際このような感覚を実感することはまずない。インターネットが、人と「繋がっている」という感覚、人に受け容れられているという感覚、それらの感覚を意識させ、人びとを繋がらせているているとは、考えにくい。
しかし、私の無目的で無意味な上記の読み方から、「繋がり」を感覚的、思想的に求める自分が思い当たる。
受け容れられている存在であることを実感させてくれるから、という思いを背後に押し隠して、「主体的に読んでいる」といえる。

誰かに受け容れられたいワタシは、読まされているともいえるし、主体的に読んでいるとも言える。

*1:読み手が情報に対して受身で受容する例として、RSSリーダーやPOPUP広告など、個人に個別的に情報が送られてくるサービスがある。もちろん、メールやMLもだし、検索でたまたま引っかかったゴミ情報もそうだろう。