フェミニズムは誰のもの?

"クリスマスの歌なんか聞こえない - フェミニズムはみんなのもの!"
http://d.hatena.ne.jp/under-the-dog/20060318/p1

少し気になった(批判というわけではないです)のが以下の部分。

個人的に、フェミは女性のみならず男性をも楽にする学問だと思っています。(女性だけの物じゃないから「フェミニズム」じゃなくて「性差学」とかそういう名前にした方がいいかもしれないんじゃないかなー。素人考えですけどね)が、現在のフェミニズムは「強い女」を庇う方向に特化されていて、私みたいな「ダメ女」にはあんまり有効じゃないみたいだ(苦笑)

感想を。

フェミニズムが誰のものか、というのは、やはり第一に「女性」のものであると、私は思う。頭から「みんなのもの」というように考えてしまうと、フェミニズム(「女性に不利益をもたらす差別の撤廃、男性と同等の権利の要求、女性の社会的地位の向上、女性が自らの生き方を決定できる自由の獲得などによって、いわゆる女性問題を解決することを目指す社会思想・社会運動を意味する」(岩波の女性学事典より。))を骨抜きにしてしまう。まず、フェミニズムの前提について考えるならばそうなる。そして、フェミニズムの効果いかん(フェミニズムは男性をも楽にする)について考えるのは、このこととは別の話になる。


フェミニズムと女性学とジェンダーの関係についてちょっと整理。
女性と言うカテゴリーにおこる支配の形態を究明することを命題とした思想・運動であるフェミニズムは、その理論化を「女性学」という学問にて、1975年ごろから展開してきた。そのときにすでに、”「女性学」をつくるなら「男性学」も成立しなければおかしい”といった批判があった*1。しかし、舘かおるの研究によると

女性学が目指したものは、学問研究のバランス論では解消されえない一個の学問研究の成立であり、それがジェンダーという概念の創出に基づいた研究であると再提示することができる。女性学が求めていたのは、研究対象、担い手、目的の男女バランスがとれれば「人間研究」(巌本の言う人類学)に解消されるものではなく、「ジェンダー研究」であったのである。女性学は、「女性という共通項」にある問題を研究することにより、諸学問分野と連携しつつ、「ジェンダー」という概念を成立させた。女性学の展開により、ジェンダー概念の発見が可能となったのである。
(舘かおる「女性学とジェンダー」1996『女性文化研究センター年報』 第9号・10号 お茶の水女子大学 女性文化研究センター)

というように、女性学の展開の中でジェンダーの発見があり、そうした系譜においてジェンダーを位置づけることの重要性を強調している。

確かに、明治時代の巌本善治の女学、70年代のフェミニズム研究による女性学、そして女性学を経ての1980年以降登場するジェンダー研究というように、女性を対象にした絵研究が進むにつれ新たな枠組みが創出されているものの、明確に研究分野の枠組みが転換されることなく現在に至っているように思う。つまり、ジェンダー研究がジェンダーを対象としているからといって、決して価値中立を求めたものではなく、女性がエンパワーメントされる学として始まった、機能している。
そして、その結果、引用先のid:under-the-dogさんが言うように「フェミは女性のみならず男性をも楽にする学問」となりえていると言うことができるのではないのかしら。かしら。

フェミニズム、女性学、ジェンダーなど、女性の地位向上が学問として特権的に行われていることの効果、影響、イメージがもたらしている意見なのだと思うが、何かに特化した研究、しかもその対象の権利・平等・自由を展望しての研究というのは、自ずからその対象を特別に擁護しているように見えてしまうのだと思う。実際の個々の女を見れば、「女」といっても多様であることでなおさら。

また、それとも実際にフェミニズムは「強い女」のための理論にしかなりえていないのだろうか。だとしたら、反省せねばならない。

*1:しかし、さらに時代をさかのぼると、すでに明治20年の段階でこのような枠組みでの議論が行われている。明治女学校の創立者で『女学雑誌』を主宰していた巌本善治と『東京経済雑誌』記者田口卯吉の間で行われた「女学」論争。