1945年8月6日8時15分

広島に原爆が投下された日。
今日も例年と変わらずこの時間に黙祷のサイレンが鳴り響く。NHKでは広島平和記念公園での慰霊式の模様を中継していたのだろう。
私は小学校において強烈な平和教育を受けてきたためか、戦争や平和について過剰に反応してしまう。ただただ、命、人権の尊厳という観点で平和を主張するだけなのだが…それでも、考えないよりはましである、と思う。
しかし、今日は毎年欠かさず行っていた黙祷を寝過ごしてしなかった。というより、今日の日自体朝日新聞を読むまで全く気づかなかった。かなりショック。私にとって平和への志向を体現する唯一の行為、しかもたった数分、すら満足にできないなんて、情けないと思った。

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昨日の昼、後楽園駅で文京区競馬場建設反対の署名と演説をどこかの市民団体が行っていた。私も文京区に競馬場なんて治安が悪くなるし、後楽園駅周辺がさらに混むので反対している。そこで、できることはしましょう、という精神から、署名した。そのとき『こんな暑い中、がんばっているなぁ』という素朴な気持ちで「がんばってください」という言葉を添えてみたが、口に出しとその瞬間、きわめて複雑な気持ちになった。
暑い中あの人たちは、自分の利益の主張ではなく、文京区の風紀、区政を守るために立っていて、私はというと、同じ判断結果を呈していても彼等ほどの真剣さも切迫感もない。そして何よ
り、他人の努力に依存しきっている。
つまり、『がんばってください』の意味が『私は何もしないけれど皆さんのがんばりに期待していますよ。』という高台から見下ろしたような発言として感じられたのだ。

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市民運動などで行動を起こすべきだ、主張を実現させるべきだ、と強く思うほどに私は生真面目な熱意を持っていないし時間もないが、無関心でいられるほど政治に期待していないわけではない。じゃあ、この曖昧さを今の自分はどう対処すればいいのか。全ての事象は無理だとしても関心の及ぶ範囲の事柄は解釈し、自分の立場を明らかにすることは意味のあることだと思う。そのことによって、いつでも行動や議論の主体になりう状況でいられるし、先ほどの(後者の意味での)『がんばってください』という言葉は出てくることもないはずだ。