学校教育のあるべきところ

公共的側面から逃避した1人ではとっとも弱い個人からなる大衆社会ポストモダン、モダンから発展した自由主義/資本主義はどこへ行き着くのかな。
それは、共同体主義という。

じゃ、学校は何をすればよいのか。

個性を開花させる以前にまずその社会化が行われなければならない、自由のための教育は、自由にたいする一定の制約が課された後でなければはじめることができない。(ローティ)

ふむふむ。
自由(私的側面の欲求充足)の行き過ぎを、足並みそろえた教育、学校独自の義務内容、によって規制したところで根本的解決にはならない、ということ。

本当にそう思う。
意味のない強制*1は不用。どうせ一つ一つの規則にもっともな理由をつけられないのだからね。

自由主義を学校教育に持ち込むことが大切。つまり、ローティが言うように、学校教育は社会化を行う場所で無ければならない。

教育なんだからね。牢獄とか更生施設ではないんだし。

抑圧の多かった過去の学校時代を思い出す今日この頃です。

*1:たとえば、体育着はブルマの中にいれる、前髪は眉毛より上の長さとか意味のない拘束が多い。風紀が乱れたら、心も乱れているとみなされる。そういえば中学には「足音は心の鏡」という立て看板が教官室の付近にあったけど。何もわざわざ個人の内面と結びつけなくとも…状況判断できることが大切なのであって。