主婦の家事労働に賃金を

『差異の政治学』(上野千鶴子)をまた読んでみている。夏に読んだのだけれど、読み方が変わったようで、気づくこと、心に留まることが多くなってきたようだ。

家事は労働である。なのに正当な評価が経済界からも政界からもどこからもされていない。というわけで家事に賃金評価をすることでその労働としての価値を可視化し、さらにはその価値を主婦は得るべきだという主張がフェミニズムにはある。北京女性会議で話題になって新聞でも頻繁に取り上げられたことなので、ご存知の方も多いかと思う。

これ(賃金に置き換えること)に対して、今までは特に賛成も反対もしなかった。素直に、家事に対する低い評価は、それを担う主婦の価値を低くし、社会において不利益を得ることになりかねない、と考えていた。

けれど、今日読んでみて疑問が湧いた。
「家事は労働である」と女性やフェミニストが言うときの労働(単に意義ある仕事をしている、労働力を再生産するという仕事をしている)は、経済における労働の定義(市場価値を生む行為が労働)と異なるということ。
よって、経済学サイドの人が、もし、「家事は労働である」と認めた場合には、労働の定義を否定することになる(だから今でも認めていないんだけどね)。さらには、労働の定義自体の変革を迫られかねない。だとしたら労働の定義は『市場の内外にかかわらず、人が人にとって価値のある仕事を労働とする』のようになるのかな。(家事を取り込むことのできる労働の定義、考えてみたいね。)

そのとき、社会はどうなるのか?
(以下妄想アワー)
労働と労働以外の境界はなだらかなものになり、どこまでを労働として賃金を支払うかは経営者にゆだねられる。サービス労働は就労時間内に終了できない人が行うもの、つまり価値のない労働として認識され、無賃金で行うように仕組まれる。お茶汲みOLはいなくなるか、超低賃金になる。
主婦が、家によって「家事はおまえの仕事だろー」と一切合財責任を負わせられ、一方で家族は家事を全くしなくなる。女性=主婦=家事の保守的構図がより強固になる。または、「家事だけしてればお金が入るのだからいい気なものよね」と同じ女に批判される。

などなど。

偏見に満ち満ちたことを考えてしまったけれど、やはりどうしても家事に賃金というのは考えにくい。納得できる理論がはしい。