「偏り」という言葉

第二次性徴を向かえ(ようとして)自分の性と向き合おうとしている人にとってどういった性の教育をしたらよいか、そういった実践としての教育をイメージしていました。多様な生徒を前にして性のあり方の一面を見せる(それはつまり異性愛カップルのみを扱う、愛によって結ばれる、セックスを美しいものとして扱う、危険なものとして扱うなど)ということは、たとえ良い・悪いという価値判断を伴わないものだとしても、その「偏り」のある教え方をしている以上、秩序付けをしていると思います。また、ポルノとひとくくりにしてもその中でも様々な表現や関係性を表していると思いますが、しかし、その様々な描写を通じてノーマル/アブノーマル、男の能動性/女の受動性を繰り返し提示することによってその境界線が強固され性のありかたが二元化されているのではないだろうかと思いました。それがすなわち「性意識の偏り」と表現した理由です。

また私がポルノを危惧したのはその境界線を素直に内面化してしまうこと、つまり、結局はノーマルな部分が正しい性としアブノーマルを禁止・禁断とすることで、セクシュアリティ異性愛として構築し認識されるということにつながるのではないかということ、また、そのノーマルな異性愛が示す男性主義的な視点からの描写が与える「ノーマルな」男女の関係性です。(今回ポルノだけに言及しましたが、それに限らないと思います)

教育によってメディアや社会規範のセクシュアリティに与える影響を乗り越えた自由なセクシュアリティを提示するとかそういった理想的なものを構想しているわけではなく、それこそ、ある意味でセクシュアリティのあり方、フェミニズムを押し付けることになりかねないわけで、性が自分の問題であるということに気づくような提案型の教育ができたらいいなと思います。

偏りということばが自分の中で何の疑問もなく使われていて、しかも、大きなくくりで偏りと一括してしまうという、説明不足が合ったかもしれません。(日記を見ていなくて、コメントも遅くなってすみません。)
緻密な考察に対していろいろ考えさせるものがありました。
ありがとうございました。