女らしさ

授業で女らしさについてグループで話し合うということをした。
そのなかで服装の話がでた。
女らしい服装をするひとも、まったくしないひともいたのだが、どちらの人も無意識的に好みを選択をしていて、全く”着心地”の悪さや不自由さを感じてはいないということをしった。見られる存在として、客体としての自分を感じないということは、どういうことなのか。
・自分の服を主体的に選択しているため満足
・見られる存在であることで欲望を満たしている
・女は可愛くするものと内面化され、服や着飾るのが好き
・服はどうだっていい

私は、可愛くしたいって思う反面、そう着飾るのは大変面倒にも思い、着飾る時間や金が本当に無駄であると思ってしまう。だから、ゆるゆるのGパンはいて身体に密着した感じのタンクトップ(660円で購入)を着て街中を颯爽と歩いていたい。すずしくて楽だし似合っているから。でも露出の多い上を着ていると胸が強調されるため周囲の目を気にしちゃう。見られるのは、着飾って可愛くして自信があるときならいいけれど、こんな適当な服のとき、しかも露出がおおいという理由だけで見られると、ルックスが見られているというより、からだの部分が性的なものであることにあらためて気づき、わずらわしく思う。もおお、好きな服を着させてよ、と思う。
なら着なけりゃいいんだけれどね。きるんです。矛盾しているよね。でも矛盾しているけれど、これでいいかなと思っている。うん、いろいろなリスクはあるけれど、結局自分の好きな服は着ているわけだから。ビンボーな服をいかに高級に見せるかとか。ね。
要は、自分に期待される女役割や付随する女イメージと服を切り離すことが可能になることに、服の選択の自由は生まれる気がする。
って考えすぎかな?