私は、非引きこもり

0時を回ったころに帰宅して、ちょっと寝て、家を出る、のが多くなった。
もちろん家の人から何回も電話がかかってくるのだが。
あまりにお互いいらいらするのもいやなので、そろそろきちんと夕飯には家に帰るかとがんばろうとした二日目の今日、家族で夕飯を食べていて気づいたことがあった。

自分の居場所はここではない。

おばあちゃんのつくるご飯はおいしいはずなのに、それがあまり実感できない。
久しぶりの家族そろっての夕飯だけれどそれはお通夜のようで、お互いに話すことは何もない。話すとしたら、おばあちゃんが料理についてのコメント(言い訳とか、よい食材があったとかなかったとか)を聞くぐらい(というか実は私と妹以外ちゃんと聞いていない)。母親は人の話が耳に入らない。そのことを指摘するとストレスがあるんだとか、頭がおかしいとか混乱してしまい、本当にやばいんではないかとおもう。それに対して父親は頼りないのか冷たいのかわからないが相談相手にもなっていない。祖父は…省略。
家族が悪いわけではなくて、私がこういう家族のあり方に違和感を感じるというだけなのだが。
だから、そう感じたとしても当分は「家族」をしていなくてはいけない気がする。
この家を出たいというより、この家はどうなるのだろう、という心配が大きいからだ。
もしも、私が好んで引用していた「シングル単位社会」の考え方を当てはめれば、自分の気持ちを無視して血のつながりがあるという理由だけで家族するなんてナンセンスなことだということになるかもしれない。楽しくないということになるのかもしれない。けれど、心配になってしまうのは、やはり、私の家族、三世代がすべて異なる家族観を持っているのにもかかわらず、それぞれが人生において「家族」に絶対的価値をおいて結束したがっているからだろう。
では、そういった価値観の違い*1の部分に目を向けず、だましだまし、「家族」を楽しくすればいいのだろうか?きっと私以外の家族は、単純に「家族」を善悪(よい家庭/悪い家庭)でとらえ、常に「善い家庭」を保つよう行動を規制している(既に規範化している)から、難なく「家族」らしさにのっとってそれを求めてゆくことができるのだと思う。
しかし、それができない私は、やはり「家族」が大切なのではなくて自分の価値観が大切なのであろう。そうである。
それを知ってまで、家族することを我慢するということは私にとって好ましくないことである。
というわけで、家をでたいんだけれど、お金のない私はだれかと一緒に住む以外に道がない。その前に院受からなくてはいけない。それより前に卒論終わらせなくてはいけない。

難問だらけだね。

*1:祖父母は拡大家族の懐かしい暖かさを、父母は核家族の気ままさ楽しさ親密さを求めている。私や妹は結婚と家族に対して冷静に捉えている