家族も他人 恋人も他人

完全に同じ意見なんて有り得ないし、完璧には理解し合えないということを理解することも相互理解には必要だ。合わないことが多過ぎると彼は言うが、じゃあどうしたらいいのかと考えると、違う人間なのだと強く意識し、解り合えなくても当然くらいの心構えをしておく以外に道はない。

理解とは自分以外の人間を他者と強く意識することから始まるものだと思う。
他者と意識し、そしてそのうえで他者の立場に近づこうとする。
そして得られるのが共感だ。

他者なのだから、意見が全然違っていても言葉が常に上手く伝わらなくても、趣味がまったく合わなくても当然のことだ。まずここを理解しないと他者と解り合える関係には永遠になれないだろう。

(「弁償するとき目が光る」http://yuki19762.exblog.jp/1352058/

これは家族にも当てはまる考えだ。
家族は自分のことのように理解しあいあっているという幻想、家族が一番家族のことを考えているという嘘。家族が家族であるがゆえに理解できるなんてばかげたロジックを信じている。
”偽り”の家族というのは、家族に秘密があることを許さない、休日家族は一緒に行動しないと落ち着かない、家族を乱す個人行動は抜けがけ行為、家族のありかたを否定する意見は「家族」幻想を揺さぶる反動思想と考えてはいないか。

家族が家族だからと家族という制度に安住している限り、家族成員の相互理解なんてありえない。他者であることを認めない限りそれは無理だろう。

しかし家族を他者と認めることをも、このような「家族」は否定するのである。
「他者」というなんて、よそよそしい、さびしい、冷たい、と考えるのである。そうではないのだ、ということを伝えるためには、長い長い対話が必要であろう。そこで対話が生まれるかどうかからして大きなハードルであるかもしれないが。

しかし、こうして、自分にとって居心地のいい家族であるようにと、家族とわかりあいたいと思った時点でその希望の実現は困難なのかもしれない。対話という苦しい過程を踏まなきゃ家族を理解できないような家族と実際にわかりあいたいと思っているのかという疑問にあたるからだ。
だから、本当に居心地のいい「家族」でありたいならば、家族は他人よりももっと冷淡なあり方で、家族という幻想の中で付き合うことが本当は一番幸せなのかもしれない。


恋人でも、友人でも、遠い外国の人のことでも、もっと他人に対して他者としての理解が必要である。理解しあっている、わかっていると、めんどくさがったり、”水臭い”といって考えることを止めてしまうことが、関係における齟齬の始まりなのだから。