恋愛関係において「重い」とは何を指すのか?

人間関係のメタファid:dice-xさん「思考錯誤」より)

辻さんは人間関係にはいくつかのメタファがあり、それらを思いつくままに二項対立で上げ、そのうちの一つである「重い/軽い」が人間関係、特に恋愛においてセンシティブな反応が起こるという。

その一例として、

(1)告白した側からの、「告白」が相手に「重さ」を感じさせているかもしれないことを気にする発言 
(2)恋人に部屋の合鍵を渡した側からの、「合鍵」が相手に「重さ」を感じさせているかもしれないことを気にする発言
をあげる。

そしてこれらの関係から、

告白する・合い鍵を渡すという“行為”に対するresponsi-bilityは「責任」に該当するだろう。責任はまさしく「重い/軽い」で形容される。」

と述べる。
そして、さらにここで、

「“コミュニケーション”に対するresponsi-bilityは「応答」に該当するだろう。」

とし、
恋愛関係において最も求められているのが「行為」よりも「コミュニケーション」であるとする。

しかし、恋愛関係において、今、切に望まれるのは、濃く・近く・密で・熱く・厚くはあっても、決して重くない関係であるゆえ、恋愛関係で求められている「”コミュニケーション”は、そこにある「重さ」を除去したかたちで成立しうるのか、と疑問を呈している。

* * * * *

思ったこと。
「重さ」とは何に対しての「重さ」を指すのか
1.恋愛において、”行為”に対する責務は「責任」にあたる。その「責任」の重さ。
2.恋愛において、”コミュニケーション”に対する責務は「応答」にあたる。その「応答」の重さ。

これより、恋愛はコミュニケーションが、つまり、「応答」が最も求められ、すなわち「重い」ものであるというように言えるので、「決して重くない恋愛関係」というものは決して成立しないし、意味の無いものであると思う。

つまり、恋愛は、それ自体「重い」のである。

また、小谷野敦が、「たった一人の恋人や数人の友人を『選ぶ』という行為は、すでに人を物象化してはいないか?」「もし人をモノ化するのが罪ならば、恋愛や結婚といった形で、一人の他人と排他的に親密な関係を結ぶこと自体が、罪なのである。」*1と言い切ったが、まったく的をえた意見であるように思う。
これを踏まえて先ほどの「重さ」を考えるとしたら、罪である恋愛はその「重さ」故に存在するので、その「重さ」自体が「罪」であるといえる。


また、恋愛は、それ自体「重い」ことについて導くには、もう一つのアプローチ方法があるように思える。非常に単純であるが、上記の2は既に1に包括されているのではないだろうか。つまり、「コミュニケーション」やその「応答」が最も重視されているのは、恋愛に関する”行為”(応答を含む)に「責任」が付きまとうということだ。


なんにせよ、「軽い」恋愛なんていうのは、想像もできない(私が重ーい恋愛を指向するとか、している、ということではないですよ)。

*1:帰ってきたもてない男女性嫌悪を超えて―』p73−74