出し抜く―耐える/主張する―我慢の限界  どっちなの?

ゆるい日記: フジテレビはDVを容認します。カミングスーン!
昨日のワークショップにもお越しいただきました、『日本の童貞』の著者の渋谷知美さんの「ゆるい日記」より。


昨日の『めちゃ×2イケてるッ!』にて、どじょうすくいの格好をしたよゐこ濱口が、DVの悩み相談を受ける。

濱口は回らぬ口で(割り箸さしてるからね)、

「ドメスティックバイオレーンス!
 ドメスティックバイオレーンス!
 ドメスティックバイオレーンス!」

と3回叫び、最後に

「カミングスーン!」

と付け加えた。
スタジオにはフジテレビ伝統のスタッフ笑いがあふれ、画面にはダメ押しのように

ドメスティックバイオレンスはどこかの映画館で笑いとばせ!」

という意味のスーパーがどーんと出た。メモをとりきれなかったけど、スーパーの趣旨は間違っていない。

わたしはびっくり仰天です。
笑い飛ばすことの意味も分からないし。
DVが笑いへと昇華できるような種類の問題ではないはず。
当事者が辛さや自分の境遇を一時でも忘れるために、または、皮肉るために、笑い飛ばすならまだしも(実際笑い飛ばせるように思えないが)、第三者が、メディアが笑い飛ばすということは、問題を軽視するという効果しか生み出さない。

しかし、渋谷さんはこの件に関して
「怒りません」
という。というのも、バカに対してこれ以上言ってやることはないし、公言する時点で刑に処されているようなものだから、と。
そして、DVに対して笑い飛ばすスタンスを絶対に崩すな、と。

バカが「報道機関」とかいって、たまに賢いふりをするから混乱が起こるのであって。バカは公共の電波つかってバカを貫きとおしなさい。誰も見なくなるまで。

昨日のワークショップでなされた渋谷さんの発言(ワークショップでの発言は、近年の傾向と言える、男らしさや女らしさを中途半端に体現する、発言する人に対して、渋谷さんならどういった対応をするか、という伊田さんからの発言にたいする応答)にも、ここに書かれたことと同様のスタンスが伺えた。
つまり
とある矛盾した発言やスタンスをとる人に対して、そのスタンスの極限を徹底的に実行するよう、あえて挑発するというもの。そうすることによって、そのスタンスの矛盾性を露呈させ、沈没させようという、なんとも過激で、戦略的なやり方を提唱する。これは、社会に対して上から見下ろすような視点を持ち、自己の優位性を実感し保持できない限り難しい、強い人にしかできないやり方。


■出し抜くの?
このやり方での効果は如何ほどなのか、ということさておき、私は、余りこの方法を好まない。
相手のやり方を利用し裏をかくというのは、表面上は流れに反しないわけだから、上手くいきそうな予感を与える。華やかでスマートにも感じる。しかし、その一方でからとられたときのことについては一切考えていない。
からめとられたときでも、笑って「まだまだよ」とクールにいっていられるのだろうか。自分の主張は意図せずにも糾弾される側になっていたら、そのときはどう流れに抵抗するのか?いつまでも出し抜く時期を見計らっているのか?いられるのか?


■主張の場としてのワークショップ
今回のワークショップでは、「オンナ」としての当事者性を利用して、そこに大きな力を見出そうとした。何らかの弱い立場にある当事者たちの声は決して弱くないし、何が弱いのかって、これらの声を吸い上げる力や、その吸い上げる人になるための力が弱いのであって、ワークショップという場所に集まるとそれがとてもよく分かる。
手作りだし、お金もないし、地を這うようなネットワークがあったとしても、上に続くような蔓はまだない。活動家として、かつては議員として声を吸い上げる部分に居た辻元清美さんが、私たちと同じオンナとして、「当事者」としてこの会場に現れたことで、本当に励まされた。「素直に言えばいい」「やりたいことをやればいい、それが力になるから」という非常にありふれた言葉が、私たちにとって非常に重要な言葉となったと思う。
言うことすらはばかれる状況で、自分の主張を延べる、主張を形にする、ということは問題化されていない弱者の声を問題として俎上に載せるには必要のことである。歴史的に言ってもそうであったのではないのか?違うのかいな?



■(余談)お金ください。
貧乏学生が行う、突貫工事的ワークショップ。その割には良くできてはいるが、展示として貧しい部分が多い。それに、お金と時間は反比例の関係で、どうも金をかけずにやると時間がかかる。学生さんは暇ではない、よ。
だから、辻元さんの「やると決めたら、金をケチるな」という言葉は、非常に共感した。

金は人を狂わせる。お金があると心も平安、ミンナ仲良し。

金欲しい。