「フェミニズム」への冒涜

いまとなっては、個人のフェミニズム思想にひとつの形容詞をつけて片付く時代でもない。そもそも、何かといえばフェミニズムなる名詞にこだわればよいという時代も終わった。何かを名づけることで、排除意識は増大するばかりだ、アイデンティティは矛盾をきたして断片化し、その結果、戦略性を強めつつあるように見える。性差・人種・階級の社会的・歴史的構造が要約認知されたとはいえ、かといってそれが本質的統一性を信ずるべき論拠を与えたかといえばそうともいえない。女性を束縛しているのは、まさに彼女たちの女性性であるというのに、その点に関する考察もない。だいたい、女性であるなどという状態じたいが、ほんらい存在してはいないのだ。女性であること、それは、生科学的言説や社会活動における論争史によって構築された複合カテゴリーにすぎない。

ところで、わたしじしんのレトリックにしても「わたしたち」という主語がいったい誰を指すのか、おわかりだろうか?いかなる根拠(アイデンティティ)があって、「わたしたち」というこの強靭なる政治神話が成り立っているのか、いかなる動機でわたしたちは「わたしたち」に所属しなければならなくなるのか?


ダナ・ハラウェイ『サイボーグ・フェミニズム』P46-47

サイボーグ・フェミニストたちが議論しなければならないのは、わたしたちがもはや統一的な母型が自然のものとしてあったなどとは前提にしていないこと、そしていかなる構築も完全ではあるえないことだ。(P51)

フェミニズムという革命思想を構築しようとするならば、アイデンティティ確定の限界を受け入れることだ。
「普遍の統一理論を生産するのは大きな誤りであり、それはいつも、特に目下のところ―現実の主要部分を取り逃がしてしまう。」(サイボーグのイメージのうちの一つの論点)