「ホワイトバンド」は自分で作って付けろ。
「貧困をなくそう」という「声」を表すという、「ホワイトバンド」…
「ホワイトバンド」なんか無くたって、皆がその意識を共有できれば「最悪」中の「最善」なのだが、それは、「貧困をなくそう」という基本的な必要ですら建前で終わってきたことを考えれば実現性のない理想である。だから、何かしらの形として示すことが、微弱な「声」を大きなうねりへと増幅し、さらには、政治をも動かすのではないか、と考えるのは、至極当然の流れであるように思う。そして、その「声」の「形」は絶対に、「記号」の中に生き、「記号」によって自身を構築する人びとに訴えかけるような、「記号」でなければならない。
つまり、お洒落でなければならない。
「ミーハーながらもホワイトバンドがほしい」
といった素直な意見や、
「無批判に『賛同』する人を批判しないでほしい」
という、その人が守ろうとしていものに対して疑問を抱かざるをえないうような、ネット上での意見は、「ホワイトバンド」がいかに「ファッション」として普及してきたかが分かるといえる。
確かに「数」の力は大きい。誰もが手にしたがるようなバンド(像)に作り上げたのは、確かな戦略であると思う。
しかし、これほどに、コンビニで手軽に購入できるようになった、この今、「『ホワイトバンド』を買うのをやめないか?」と言いたい。
もう十分に、「ホワイトバンド」はインターネット上では認知されているのではないか?そしてもちろん「ホワイトバンド」の意志は十分に伝わったと思うし、(このように批判を囲書こうとしている)私も、もちろんその意志を評価している。
だから、さらに次の段階に進もうじゃないか。
また、
このように店頭で議論もなく手にとられてしまうことの、安易さが、逆に恐ろしい。もしも、これが「ホワイトバンド」ではなくて、ナショナリズムを喚起させるような運動だったら?と思う。
だから、さらに次の段階に進もうじゃないか。
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そこで私は提案したい。
ホワイトバンドを自分で作ろう。
白い代えゴムでも、うどんでも、紙でも、ロープでも、ビニールテープでも、何でもよい。
ホワイトバンドは連帯するためのきっかけ以上のものであってはならないのだから。
そして、寄付にもならない、むしろ仲介業者の利益なるような、ホワイトバンドを買う必要は、ない。
「ホワイトバンド」の意志を受け継ぎ、さらに、物に投影した自分へのナルシズムで連携するではなく、相手を思いやる「ほっとけない」という気持ちのみで連帯するために。