コミュニティーに形はない。それは共振する波状のもの。接続の可能性の場。

自分と同じ「仲間」がいるということではなく、自分の経験や感情と何らかの点でつながる経験や感情を持つ人がいるということを通じて、孤独と断絶を超えて、どこかその先にいる誰かへと遠くつながっていく可能性を信じさせてくれること。自分がここで経験している、こういう喜び、こういう苦しみ、こういう悲しみ、こういう希望に、どこかで誰か気がつき、反応し、共振してくれる、そしてその共振が、少しずつずれながら、さらに遠く広い振動に続いていく、その可能性に賭ける勇気を与えてくれること。そういう、いまだ自覚されない接続可能性を可能性として自覚させ、いまだ存在しない接続可能性に可能性としての存在を与えること、究極的にはそのような他者への接続の潜在的可能性の場こそが「コミュニティ」なのではないだろうか。

FemTumYum - 潜在的可能性としてのコミュニティー、あるいはconjuntoさんに感謝を込めて(4/12)

共感がもたらす空間を越えた連帯意識を私も感じることがある。
「私」を中心とした、「私」を構成するネットワークの一つとして、ネットの人々、ネットの文章があると考えられる。コミュニティとは言えないとしても、その感覚は非常によく分かる。
また、ネット上では鏡としての他者に出会いやすい。他人の文章を読むこと、ブクマすること、それに影響を受けて書くことを通じ、他者(の文章、思考)が曖昧な私に確かな輪郭を与える。他者を見ることで自分を知ることができる。

ネット上では他者と私の境界がよい意味で曖昧だ。まるでたくさんの自分がいるようで、とても居心地がいいし、安心する。そうやって、自分に似た者と集まることの効果は、その民主主義における弊害よりも重要であるように思うのは、私が、インターネットを現実社会における生活空間とは別のものというよりも、劣るというか、低次元というような認識があるからというわけではない。しかし、うまく説明ができない。