萌えとセクシーの間で。パイパン

最近、本田透の『萌える男』を読んだ影響で、暇な時間になるといつも「萌える男」と「恋愛資本主義」について考えています。また、それと同じ方向(恋愛と結婚とを完全に分離するという、同じ立場にあること)から、「女を買う男」と「恋愛資本主義」について同時に考えています。また、そこで見出されている女とは、「萌えられる女」「買われる女」というように受動的な主体であることから、むしろ反対に、能動的な身体は存在しないのか?捉えることはできないのか?という疑問より、女の側から萌えを考えてみたいと思いました。
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友人がアメリカで脱毛処理をしてきたとのこと。毛は毛でも陰毛。エチケットとしての、また、快楽のための、脱毛という欧米の常識。痛さと引き換えに人工的な生殖器を手に入れた暁には、いったい何が手に入るのか。女性の努力は女性に利益をもたらすもの?セクシーな身体の中で、ためらいなく主張する潤った生殖器が、満面の笑みとともに提示される欧米のポルノを見ると、そこに人工的な強さ(隠すものは何もない、守られる必要はない、加工された身体=ある意味サイボーグ的)を見出すことができるのであって、案外悪くもないかなとその気にさせられる。しかし、これは単なる男性の欲望の一スタイルであるだけで、主体的な行動でない可能性は当然ある。だとしても、男性の手によって女性の毛が剃られる・抜かれるという行為自体がある種の欲望の対象となったり、脱毛の結果行動の拘束や辱めといった形で主従関係が形成される日本のセックスの文化に比べれば、よっぽど女性が主体的に、むしろ「撮りなさいよ」と挑発的にカメラに生殖器が向けられている。
日本人女性の幼児体型と言われる身体ほど、辱められるのが似合う(こどもに近いか弱く主体性のないイメージの)身体はないと思うのと同時に、だからといって支配的な関係性を模倣する必要はないわけであって、また、西欧の女性のセクシーさを模倣する必要も当然ないわけで。何をいいたいのか分からなくなってきたけど、ただ、二つの文化のイメージの間でゆれる「パイパン」に自分はなってみてもよいかなということです。どうしようもない日記だ。