ケーキにむかつく、狂っている私。

私は狂っている。時に、本当に、おかしい。
* * *
家に帰ったらケーキがあった。
すでに家族は食べ終えている。
どこかの有名店のケーキだそう。
パティシェ気取りの妹のお墨付き。
妹は、庶民の味方コージー・コーナーを馬鹿にするような人間である。「高いから」「有名だから」といって、東京から土産を買ってくる。何を食べさせられるのか分かったもんじゃない。毎度のことである。値段と味は相関関係にないことを、はやく分かってほしいものだ。
さてさて。妹の話はいいんだ。今日は私の話。
その、私に与えられた有名店のケーキだが、そのわりには、非常に素朴で飾りも何もない。円柱型をしており、ただそれだけの非常にそっけない風貌である。そればかりか、酷いことに全体的にうんこ色をしている。なんだ、この垢抜けないケーキは。
また、それは、明らかに私の大嫌いなプティングをベースにしたケーキであった。ご丁寧に、クレームブリュレのようにケーキ上層部は砂糖がバーナーで焼き付けられ、薄い飴状になっている。
わかったよ、セニョリータ。真ん中から割ったら、絶対に、ソースがでてくるんだ。そうだろう?洗練した部類の味ではない、焦がしたキャラメル味の。ゲロゲロしたプリンとソースが混じって、飛び出してきて。
こんなの食いたくない。と思った。たとえ、どんなにすごい人が作ったとしても。

冷蔵庫の中のケーキを睨み付けている私に対して、妹は、嬉しそうに、
「家族全員、一つ一つ違う味を買ったんだよ」
と言って、Canon IXY 700万画素のデジタルカメラで撮った、そのほかの5つのケーキを見せ付けた。それらは、私に残されたケーキよりも、何十倍もお洒落で、装飾が凝っていて、さわやかで、フルーティで、職人の手間隙かっていることが分かった。
うう、悔しい。華やかなドルチェ。
私にわざわざこのくそまずそうなケーキを残しておくなんて、本当に、本当に妹をはじめとする家族が憎らしく思った。妹が、残り物のこのケーキを指して「みんな、これを食べたんだよ」と気を利かせて言ったのならば、私は大人しく食べたものを。あのすばらしいケーキを見せ付けられてしまったからには、腹立ちを感じずにはいられない。
嫉妬に似た気持ちで憤慨した私には、もはや「もしかしたら美味しいかも」という可能性を考える余地はなく、まずいに違いないと確信していた(たぶん、店頭で見てもまずい印象をうけただろうが)。そして、妹に、「こんなくそまずそうなのは食べない」と言い放ち、(そのケーキは一応妹の誕生日ケーキなのにもかかわらず)冷酷にも「誕生日プレゼントにあげるよ」と言った。ところが、そのように言ったそばから、皆が「おいしい」と言っているケーキを拒絶するのは、非常に悔しいことのように思った。誤解しないでおくれ。おいしいケーキを食べられないことが悔しいのではなくて、「おいしいケーキ」と思っている人に「おいしいケーキ」を再び与えるのが悔しいのだ。妹には「やっぱり食べたかったんだね」と思われるかもしれないが、そんなことは気にせず前言撤回することを選択した。つまり、あれほど滅茶苦茶に嫌っていたケーキを食べることにした。
間抜けなりに、「ごめん、ごめん」とへらへらし、その一方で「もしも本当に美味しかったらどうリアクションしましょうかしら」と不安を感じながらも、潔く食べ始めた。
真ん中からフォークを入れると、やはり、予想通りプディングとソースとで層状に構成されていた。プリンやムース状のケーキには、果物は洋ナシだと相場が決まっている。悪いが私はこの洋ナシが嫌いだ。本当の余計なことをするなぁとつくづく思う。今回も案の定洋ナシ。
そして肝心の味だが。やはり、味も想像通り、いや想像以上に悪かった。カラメルソースは苦いし、全体的にリキュールも、甘さも強い。なぜこんなにも全部の要素を強調するのか?と疑問に思うような商品だった。
食べ終わり、明らかに、自分が馬鹿げていると思った。
どのケーキが残されていたかだけで、そのメッセージを読み取るなんて、クレイジーだ。そんなの探偵小説の中だけにしてほしい。
高級なケーキにけちをつけるのも、私は大衆的な味しかわからない庶民であることからくルサンチマンなのである。味のアンバランスさに対して単にまとまりがないと文句を言うのは、音楽に対するそれと同じ立場にあるのである。

そして、この一連の、私の馬鹿げた憤りは、食べても収まることはなく、収める代わりに、全部吐いてしまった。
本当に狂っている。