女性の静かな抵抗―うつを政治的に読み替える―:コメントへの返答

私の議論に関係のある部分のみを取り上げます。
また、非常に長くなってしまい、申し訳ありません>ブクマにコメントしてくださった某方へ

(1)恣意的ということについての批判
余りにも恣意的な言説に感じられます。(ポチさん)

別に揚げ足取りをしたいわけではありませんが、既に恣意的な場の情勢を修正する意味でこれまで取り上げられなかった一面を主張しようとすることに対し、「恣意的」と述べるということについて、どのような意味があるのでしょうか。わたしは、学問とは今も昔も政治的であり、すなわち恣意的であると思っています。だから、その恣意的な男性による学問に対抗すべくフェミニズムが誕生したのです。なので、「恣意的」という言葉は、私には批判として伝わってきません。

(2)抵抗としての「女性の”うつ病”」に対する各種批判
生物学的要因から女性に好発する病気というのはいくらでもあるのであって、例えば一番極端な例が乳癌です。乳癌や膠原病が「抵抗」でなくて、鬱病が「抵抗」である理由はなんでしょうか。

逆に、男性に好発する病気もいくらでもあります。だとすればどうして、鬱病が特別視されるのでしょうか。(farceurさん)

私はうつ病が「生物学的要因から女性に好発する病気」ということも、それが生物学的に根拠があるのだということも申しておりません。むしろ、女性に起きたうつ病(あくまで、女性に限定しています)という病気そのものを社会的に読み替える作業をしています。もしかしたら、うつ病が「抵抗」であるのはなぜか?と問いたかったのかなぁと思うのですが、そのあたりは、女性が自身のおかれた環境のなかで沈黙せざるを得なかったこと、そしてそれは結局ストレスとなり、その沈黙の中から抑圧された「意思」が突き破って出てきた、出て来ざるを得なかったということ、それらの社会的な、ジェンダー的な現象を鑑みて「病気」が言葉を持たない「抵抗」、まさに「消極的な抵抗」(id:discour:20060726にてdiscourさんが述べています)とといえると思っています(また、「抵抗」という言葉についてより詳しく以下の文章に説明します。)。
ちょうど、「抵抗」という言葉への違和感については、kmizusawaさんが26日の日記にて、「「抵抗」という、その状態を主体的に選び取っているかのような言葉」とおっしゃっていますが、それも一つの恣意的(←批判的ないみはありません)な読みをしていると思います。抵抗がとある一個人の行為だとして捉えているから、そこに主体性のイメージがついているのです。そうではなく、私は、まず、女性の語るうつ病の原因と発生「女性役割の遂行→それゆえに認められない→認められないことに対して怒るのではなく、我慢し、あるいはがんばりすぎる→次第にそれがストレスとなる→うつ病」を考慮し、ストレスから逃れる場所のない現状について問題化し、この行き場のないストレスがうつ病をもたらした、ストレスの逃げ場が病気として噴出したと考えます(確かにここで多少の一般化をしています。しかし、女性のうつの原因が 1位 妊娠・出産・月経 2位 家庭内の葛藤 3位 近親者の病気や死 http://blog.nnfh.net/?cid=3287 ということをかんがみれば、そして、医療の現場でも女性の問題がうつ病に大きく関係しているという認識がすでに形成されていているとすれば、あながち間違った一般化ではないと思います)。そして、社会という側から「女性の”うつ”」をジェンダーの視点でみると、これまで男性優位社会に従順であった女性がとたんにその役割を放棄した、つまり制度への抵抗と考えます(ちなみに、ニートに対しても同種の語りがあるようですね)。kmizusawaさんやfarceurさんは、好きで選んだわけではない、ましてや治したいはずの病気やそれに伴う行為にたいして、「抵抗」と意味づけられてしまうことに問題や恣意性を感じていると思いますが、私は当事者に対して「抵抗している」といっているのではなくて、「女性の”うつ病”」という現象が社会への抵抗であると読み取れると言っているのです。そして、これに対して恣意的であるといわれても、そういうものだから、としか言えません。

(3)類推による批判
うつ病と)同様に「自分は被抑圧者だ」と患者が思うことは、被害妄想という症状ゆえのことであるかもしれないわけです。盗聴妄想を訴える統合失調症の患者に「この社会は監視社会であり、病気はそれに対する抵抗なのだ」と言うことは治療妨害以外の何物でもないでしょう。失礼ですが、もう一度よくお考えになった方がよいかと思います。(farceurさん)

盗聴妄想に、ジェンダー的な問題がないのにもかかわらず、「女性の”うつ病”」と同列に考え、類推しないほうがいいと思います。

(4)当事者による批判
ちなみに私は元鬱病者の男です。何の顕著な社会的抑圧下にもありませんが、病気の時は「自分は社会から虐げられた存在だ」と信じ込んでいました。(farceurさん)

個人的、個別的な話をしたいわけではないので、あなたの場合はそうでしたか、というほかにありません。また、今問題にしたいのは「女性の”うつ”」ですが、同様にジェンダーの問題として読むとすれば、果たして本当にfarceurさんは「社会的抑圧下」になかったのか、「顕著な」それがないと思っているだけであって、むしろ女性や主婦と同様に、男性という社会的に責任ある立場というジェンダーが抑圧を与えたという可能性もあります。しかし、これだけの情報からではそれは私には分かりかねますので、これ以上は申しません。

(5)その他1
掛け声(理念倒れ無きにしも非ずの)だけの男女平等実現化に向けた男女共同参画なぞという政治施策に回収されないためにも、こうしたある種、黙視の抵抗形態として「鬱女性の顕在化」から、私たちは社会的な取り組みを後押しするべきでしょう。ついでながら、こういう女性の鬱の顕在化は、不登校の子供たちが声を挙げ出してきている状況と、どこかで符号することではないか、と私見ですが。(shojisatoさん)

確かに、不登校の子どもたちが声を挙げて出だしていることと、家庭での状況(役割分業が引き起こす各種ストレス)が関係しているかもしれない、女性と同様子どもとしての役目(勉強、習い事、それでいて子どもらしさや健康、元気を求められる)に重圧を感じ、それに逃れるすべもなく、不登校という「消極的な抵抗」に出ているとも、読めると思います。そのように読むことで、社会は何をすればいいのかが明確になるのであれば、私は、ジェンダーに関する領域に限らず、積極的に抵抗の理論を主張したいです。

(5)その他2
chidarinnさんは「すべてのうつの問題はジェンダー問題である」なんてことは主張なさっていません。むしろ、生物学的だとみなされ、それに簡単に還元されてしまう医療主義に警告を発しながら、社会的・政治的文脈を浮き彫りにされている作業だと僕には感じます。そしてそれは決して「医療なんて意味がない」というのも違うはずなのです。そういう理解でよろしいでしょうか?>chidarinnさん  (x0000000000さん)

はい。その通りです。追記で書こうと思っていたことをおっしゃってくださり、ありがとうございます。
うつ病気という病気は、そのメカニズムが医学的に解釈されるとしても、その原因については、明確ではないといいます。生活環境、その人が持っている感受性や感覚や気質、ストレスなどなどが複雑に関係するため、単純に生物学的要因や生得的な特性に還元できないわけです。
今回のテレビ番組がとりわけ「女性の”うつ”」をテーマにし、よくありがちな病気を特集する健康番組のようにその病気の特性や病気や治療つらさを一般論的に語り、解説やアドバイスをするのではなく、当事者の女性のおかれた状況や環境、経験・体験に注目し、聞き取り、記録しています。このように長時間にわたって、「決して結論を急ぐことなく」(←実際に番組中、司会者はこのように述べていました。結論を出そうと思えば、一般論に従ってすぐに出てしまうので、あえて、一歩一歩見てゆくのです。)女性の経験を取り上げるということの意味について、私は、この病気の症状は薬で確実に治ると認識されている一方で、その病巣はもっと別のところにあると多くの人が気づき始めてきていると感じました。実際に番組で集められた無数のナラティブは、社会的背景における共通点や傾向をつかめるはずだと思います(今後の番組制作で活用するそうなので期待したいところです)。また、当事者によるの病気に関する「被抑圧者としての語り」(私はそう思いませんが、farceurさんは「「起きあがれない」「家事ができない」というのは、端的に「病気でしんどい」だけという蓋然性が極めて高いです。」そうおっしゃるのであえて)に対し、それがうつ病の症状に由来するものとして、根拠がないと聞き流すことはできません。多少の脚色はあるとしても、被害者の自分に一時的に陶酔したかったとしても、その内容を話さなくてはならなかった理由や、その内容を語ることで得ようとしている陶酔とは何かを考える必要があると思います。そこに当事者がこだわっていること、気にしなくてはならなかったこと、つまりうつの原因の一つがあると思うからです。当事者が発信しているメッセージを、医療的な観点から被害者語りとして捨ててしまうことで、見ることのできなかったことは多いのではないでしょうか?だから、私は、医療を否定するという形ではなく、社会的背景の存在を強調したのです。

(5)その他3
フェミニズムの主張が、こうした誤読を顕在化してしまう原因は、社会の側にこそあれ、そうした主張をする人たちに責任を帰されるべきだとは全く思いません。だから、どんどん言うべきだと思っています。「フェミニズム側の言い方が悪い」という批判に対しては、僕はそうした誤読をするほうが悪いと、反論すべきだと思っています。(x0000000000さん)

心強く思いました。付け加えると、私はもう少しポジティうで、誤読ながらもコメントを付けてくださると、何が伝わりにくいのかが分かってとてもためになります。フェミニズムの主張が強くなるためのチャンスです。

(最後に見方をかえて)そもそもうつ病の原因において医療や生物学的根拠=真実ではない。よって、当然、社会的な背景を手がかりに治療をすることもあるし、それが効果的な場合は心の病気に多い。(chidarinn)

すこし話はかわりますが、実際の治療では薬物療法に加え、ストレスを軽減するよう指導すると思いますが、ストレスの背景を無視して単に「ストレスなのでストレスをなくしましょう」なんてバカなアドバイスをする医者などいないのであって、ストレスの元を明らかにし、それを経つことが、ストレスを取り除く確かな方法なわけです。薬物投与はその表出している病状を軽減し、回復に向かう手助けをするものとして位置づけるべきです(薬物投与で当人の置かれたストレスフルな環境や状況は変わりません)。この病気において、医療現場だって完全に生物学的根拠に頼り切っているわけではないのです。今もなお医学的に不明な点が多いし、医学を駆使しても効果を出すことができない部分が存在するということ、つまり治療は患者と対峙してと行われるのであって、顕微鏡の中で行われているのではないということ、医者と患者、医者と患者の家族、患者と家族、そして医者、患者と社会、当事者同士といった各種の関わりが非常に重要になってくる(だから、問題もあるだろうし、しかし、可能性もある)ということを、真実を照らしているかのように見えてしまう科学によって、忘れてはいけないと思います。