当事者とフェミニズムの実践

私はフェミニズムにおいて運動や社会に働きかけるべく実践をする者ではありません(個人的な実践はありますが、「フェミニズム」「フェミニスト」としての実践は経験したことはありますが、うんざりしてやめました)。よって、フェミニズムという運動体が他者について考える際に、避けることのできない当事者との立場性の違いをどのように乗り越えるか、どのように歩み寄って共同してゆくかについての実践哲学は、私は勉強不足であるとともに、当然ながら経験不足であると思います。

もしも、最近の一連のエントリーにおいて、私が自分の論をもとに実際に実践の場に生かそうとか、フェミニズムの運動を展開したり、データ集めてフェミニストの論文でも書こうという意思があったのであれば、
私がたくさんのコメントをつけてくださった当事者であるfarceurさんの批判や主張に対し、私が述べておかなくてはならないことは、
医学的な知識が不足しているという指摘に対して、その真偽は別にして「ごめんなさい」あるいは曖昧に「勉強します」と言ってしまうよりも、(未知の他者に対してよく思うことですが)「もっとあなたのお話を聞かせてください」だと思います。

「そういう土壌があるよね」と言っているだけでは、そして当事者の言っている事と自分の言っている事は関係ない、と開き直ってもだめで、女性のうつが何か社会的な事柄に対する抵抗としてあるなら、そしてそこにある問題を解決することが意義あることならば、当事者にどうやってそれを納得させるかということが(そのためには場合によってはうつがある種の抵抗であると言わない必要が逆説的にあるかもしれません)、理論とは別に実践として絶対に必要で、そしてそのことによってはじめて「強者の理論」に「さよなら」できるのではないでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/belus/20060729

上の文章は、理論ではなく、その実践について語られたものなのですが、これは従来から理念として考えられているでしょうし、戦略として持論を圧する、変更するということはよくあることだし、他者と共存する方法のひとつとしてそのとおりだと思います。しかし当事者を「納得させる」だなんて、おこがましくて、同種の問題を抱えた間柄ですら、答えは一緒でも思考の過程が異なるなど、些細な事のように見えることでも当事者間には非常に重要と考えられることは山のようにあるわけです。それらをすり合わせて、お互いに妥協して融和するというのは大変難しいことであって。問題にセンシティブな両者だとなおさらで、センシティヴだから議論するんだけども。そうなの、議論が必要なのよ。前提として、どのような場所にもコンフリクトは必ずあるのであり、それを恐れずに、歩み寄る、あるいは、わからないことをわからないと認め理解することが必要に思うのですが、そのくらい慎重で期待はしない立ち居地でよいでしょうか?

フェミニズムとその実践と私

私は、ブログでNHKの「女の”うつ”」の感想文書いたり思考実験なんかしていないで、実践をすべきなのでしょうか。(先日の一連の問題山積のまま提示した文章に対する責任があるのでしょうか)。
実践をするとしたら、運動という実践はしたくないし、できる類のものとも思わないので、研究になるのかな。
相手と歩み寄りが必要だとしたら、求められているように、誰もが反証可能な状態、誰もが理解できると言われている形で、一般的に「正しい」と思い込まれている科学的な論文を、つまり大量データに基づく数量的な研究や医学的生物学的な「客観的」「事実」をもとにして、自分のビジョンを構築、論文として提示すればいいと思うのですが、しかし、そういう科学に対して盲目的な研究は御免なさいなので、そういう意味で、相手の期待するものに必ずしも応じることができず、ごめんなさい、ご理解くださいと思います。

でも、ほんと、いつかちゃんと書きたいと思いますので、その際には、この議論の続きをまたはじめさせてください。(修士論文が終わったら、並行して? 未定です)。