おむつを胸に抱えて

9月19日NHKで放送された、介護ドラマ「介護エトワール」(原作:脚本 遥洋子『介護と恋愛』)を見た。
http://www.nhk.or.jp/drama/html_news.html

「私のお母さんのおむつをかえて欲しいの」
「私にとって愛はおむつなの!」

父親が死ぬまで介護をした主人公が、婚約を迫る彼氏(しかも、主人公の父親の葬式後に、待ってましたとばかりの二度目のプロポーズ)にこう言うの。

私もそう思うの。
良い言葉に出会った今日は本音で語らせて。

(以下 駄文なので自分用)


家族になることによって、家族や親戚の間で、面倒なこと、汚いこと、いらいらすること、お金に関する醜いこと、沢山あるけれど、それが嫌だからとこれから自分の家族を作ることをやめるのか、それとも、それを知った上で工夫しながら家族とともに生きるのか、私はどちらを選ぶのか半人前の今は分からない。しかし、子どものころから「結婚」や「家族」することで、一応生物学的にも戸籍上も女性である私に降りかかるであろうマイナス面ばかりが想起されてしまうのは事実であって。私はなんと悲観的なのだろうと自分でも思うのだけど、身近に結婚や家族の見本があれば、刷り込まれてしまうのも、当然だと思って割り切っているし、というか、むしろその悲観的な家族観をもてたことを今では感謝している。

私は、大正―昭和時代の規範的な家族観にしばられた私の家族について考えながら、そんな家族に振り回されるのがこりごりでもあり、しかし、平凡すぎる自分たちの、唯一のアイデンティティである「普通」を盾に、「むしろ普通が一番」だと言って金持ちやホワイトカラーや学のある人や自由奔放な核家族を揶揄する、世の中に抵抗するあの人たちが大好きでもあるから、私はひどく感情の矛盾に葛藤してしまう。家族でやりあうのは鏡に向かって拳をたたきつけるようなもんで、家族に抵抗して自分が痛いのは当然だ。私は私の家族を否定などできない。私はやはり、こんな、普通で、普通にしかなれなかった、陸奥の農民、蝦夷の商人上がりの分家で根無し草の拡大家族のイメージに縛られたこの家がすきなんだ。
申し訳ないけど、そういうわけだから、「金持ちと結婚しなさい」という家族の願望は成就しないでしょうし、もしもそんな時がきたら、みんなもコンプレックスで顔をゆがめて祝福し、二次会では無礼講もいいところ、ありとあらゆる暴言を述べるんでしょう。なんだ、あのボンボンは。マザコンがって。そんなの嫌だってば。だったら、いつまでも結婚しない馬鹿な娘でいい。家族幻想に付き合ってあげたい。

学術的な本はもちろん、文庫本すらない家。あるのは、ぎぼ愛子と古紙回収で適当に拾ってきた読んでいない本数冊くらい。「ジェンダー」の「ジェ」の字も分からない、私と共通の言葉も無いこんな家族がいて、私は私にとって幸せな人生を、生き様を見せるしか、家族に理解してもらえるすべが無いのだよ。何が悲しいかって、やはり、ジェンダー論が理想論だからだな。既に家父長的な価値観で人生の半分が過ぎてしまった人は、自身の人生が批判されているようにしか、感じられないみたいだよ。そういうつもりはないのに、そう感じてしまう。それはジェンダー論が人の生き様についての哲学の一つだから。
個人とか、私とは何かなど、考えることなく、馬車馬のように働いて、嫁舅/姑関係が悪くて、母なんて「人生唯一の幸せはあなたたちが生まれてきてくれたことだ」と述べるんですよ。貧乏で、パンツもお古、歯磨きも無かったような家の子どもだった母親は、自分でバイトした金で高校、短大を出て、そしてやっと自分の夢がかなったと思ったら、寿退職だ。勤続年数1年。農業と家事と介護で若くして死んだ母親を持つ、私の母親は、そんな母のようにはなるまいと、結婚と「自分の」家族とに夢と希望を持って都会に出てきたものの、ことごとく裏切られた。そんな人の言葉には、重みがある。

結婚、家業に家事、育児。そして次は介護。
今日は祖母が腰を悪化させて床に付している。寝返りも打てない。今日は行きつけの近くの病院は休みだ。かわいそうに痛みをこらえて明日を待っている。
祖母の背中はどんどん曲がって90度に折れている。今日の悪化で、今後家事、歩くのすら難しいのではないか。
妹は来年就職するため家を出る。
家事などの家のことは学生の私がやればいいだろう。
そして母は、父の少ない給料を補うために、今日もまた嫌がらせのある職場に行く。社会保険のない擬似パート。
ぼけてきた祖父のことも気がかりだ。
何が幸せかって分からないよ。
こっちは今を生きるしかないんだから。

何が悔しいのか分からないけど、悔しいんだよ。