沈黙

文脈逸脱的に中傷されることにより、名指しされた本人は、文脈を失い、混乱の中に貶められ、自分では制御できない状態に陥る。私の知らない「私」に出会うことの驚き、疎外感は言いえぬ不安をもたらす。
発話者は発話者で、言葉を発した瞬間から、行為体としての役目を終え、言葉(言語)が発話者の行為とその結果となる。
発話者は、その「中傷」はあなたを中傷しているのではない、あなたとは関係ない、中傷するつもりはない、何も考えていないと、その真偽を確かめることが出来ないことをいいことに、それらを主張することが出来る。そうやって、相手の「痛み」を無視して自身の利益の為に、言語に対する責任を放棄することは大いにありえることである。
中傷の有無、起源は社会的、関係的に構築されており、特定の人や具体的な事象にそれらを特定することは大変に困難である。
よって、名指しされた本人は「中傷」の真偽を問うことを諦めてしまう。抵抗をやめ、反復される名づけに身を任せ、期待されるイメージを内面化してゆく。それと共に、呼び名に対する違和感、身体と主体の乖離を一時的に解消しようと、自己と他者双方に向けて嘘をつく。
これより、「中傷」される私は、被抑圧者であると同時に、自身に対する抑圧の行為体であることが分かる。
抵抗の主体になりたい。しかし、なれない。ならば、第三の選択として、戦略としての沈黙を提示したい。
呼びかけに応答しないことは、名指しされた本人を主体たらしめないのではなく、貴方と私の差異を不問のままに、私を自立した存在として浮かび上がらせる行為ではないかと思う。
沈黙することは何もしないことではない。
中傷を批判するだけでなく、反転させ、肯定的意味に転換させる可能性について考えることである。
なぜ、他者から名づけられなくてはならないのか。なぜ、あなたの文脈のなかで「私」が形成され、「私」が私の知らぬところでその外観を変貌させ、増殖しなくてはならないのか。このように、不本意な「私」をこれ以上増やさないためには、対話をやめて、沈黙するしかない。