昨日の日記に対するブクマのコメントへの意見

# 2006年11月12日 plummet ヲチ ネットのゆるやかな匿名性の中から、あえて性差をほじくり出す実験? よく分からんな。

私も「ネットのゆるやかな匿名性」に期待をしたいという、インターネットにおける古い考え(技術決定論)にしがみつきたい気持ちはあります。インターネットにおける性別と匿名性の関係について言えば、例えば、シェリー・タークルが『接続された心』のなかで、数節に渡って説明するヴァーチャル・ジェンダー・スワッピングは(別名、ヴァーチャル異性装、ヴァーチャル・ジェンダー・ベンディング など)、体験としても、研究対象としても魅力的ですもの。
しかしそれは、実際にどれほど、男性→女性、女性→男性が行われているかは分からない、確認できないとしても(なぜなら匿名性が保たれているから)、その点を凌駕するほどに匿名性は、ジェンダーの未来にとって魅力的だということです。これはジェンダーとインターネットというメディアに関する議論で言うと、90年代初頭までの考え方です。
また、示したい対象が建前上存在しないことを前提にし、それにしがみつくということは、インターネットという空間そのものが一種のファンタジーにすぎなくなってしまい、議論を停止させると思っています。実際に、リアルにインターネットに適用されるような、これ以上の議論出てきませんでした。
私が性別、性差を「あえてほじくり出す」意味は、性別における「匿名性」は、すなわちジェンダー平等ではない、ということを示す意味があります。「ブログ」の既存のメディアの取り上げられ方、商業利用のされ方を見てみれば、現実社会におけるジェンダー非対称性がインターネットに持ち込まれていることが明らかです。また、個人レベルのジェンダー認識においても、ブロガーの向こう側にある物理的な身体を想起させない、非中性的な書き方をするのは、よほど意識的に書かない限り、難しいと思います。あるいは、「○○は女性だったの?」といった誤認が生じることは、面白いことでもありますが、文体や内容をどちらかの性別にあてはめて考えるという、読み方をしていることが浮き彫りにされているわけです。それもこれも、インターネットにおける匿名性に基づく主体概念が共通認識として形成されていなく、現実における主体の延長として捉えているからです。そういった認識の混同を目の当たりにし、インターネットでの出来事、経験を、社会との延長上、関係性で捉える必要があると思うのです。私は何も新しいこと、めずらしいことを言っているわけではないと思います。