お茶大生セクハラ事件<追記>

実は、この事件の被害者であるお茶大生は私の知り合いだった…。当日の内容も、警察に言うまでの日々の記録も一通りしった。

本人の性格をよく知っているので、本当に辛い気持ちになった。本人のことを知らない人には、合意の上での行為、男女関係のトラブルと思うような事件内容だった。訴訟を起こしても圧倒的優位な立場にはならないだろうな、と思った。
法廷で証人が必要ならば出てゆきたいなぁ…。



<追記3>新たに思ったこと
この事件で思ったことは、被害者がその犯罪性に気づき、声を発するけでも困難なことであり、ましてやそれが第三者に理解されるのは全く困難になっているのではないか、ということ。


「性(的)行為」という言葉には単にその行為を指すのではなく、既に両者の了解が存在することが前提となっていることを暗に示しているため、行為の問題性が見えにくくなっている。

というのも、本人がどう考えたのか、どういう状況にあったのかについては全く考慮されずに、そのかわり加害者による一方的な行為がどれほど被害者に許容されていたのかが問題になっている気がするのだ。すなわち、「行為」がすでに行為は両者の間に成立してもおかしくないということを暗に示し、考えられるため、性的暴力が行われた事の問題性は一切問われずに、その行為がどれほど両者の間で了解されていたを行為のレベル・強度で考えられている。

何でも結果・客観的事実が大切なのだろうか?
本人の意思・人権が問題にされることはないのか?
もしもそうならば、
法は誰を守ろうとしているのか?<追記4>リファラーより。
id:yasaiさん⇒http://d.hatena.ne.jp/yasai/20031211
の主張は私のように問題に対して局所的な視点で語るのではないし、理解までの導入部分もきちんとしているので理解しやすい。

人は基本的に自分の気持ちしか分からない。他人の気持ちをおしはかるのは想像力の賜物だ。しかしその想像力をはなから他人に期待などしてはいけない。「考えてみてよ」と声をあげることは重要だ。

同感。私も最近勉強していること*1がこのようなことなので。

一つ付け加えるならば、他人の気持ちを推し量る際には、自分の立場からでもなく、他人に同調するのでもなく、その間から考える必要があるということ。関係性の網の目に注目しなくては、解決にはならない。根本的に修繕の必要な家を表面的にリフォームしても解決にならないのと同じで、全体を見て、関係の構造を見て、直して行かなくてはいけないと思う。

*1:「法の政治学」岡野八代  青土社 は参考になりますよ。