第一波フェミニズムを読む NO.2

エレン・ケイの「恋愛と結婚」を読んでいる。
この人の文章はかなり冷静。硬い文章。けれど楽しい。

人の性以外の道徳を彼の性倫理で判断するのは、彼の性倫理をそれ以外の道徳的観点から判断するよりも道理にあわないことになる。(P39)

本当にそう思う。
そして、さらに詳しく以下のように記述されている。

生の向上発展を恋愛の道徳的な基準として取り上げた場合、初めに述べた通り、自由恋愛と合法的恋愛とを、離婚と結婚継続とを、子どもを持たない主義と子どもの親になる主義とを比較して、どちらが道徳的であり、どちらが不道徳的であるかをあらかじめ判断を下すことは不可能である。というのは、結果は、どれぞれのケースごとに背景となる当事者の意思と選択によって左右され、また、事態の発展はただ当事者の意思と選択の種類によって決定されるからである。(P47)

日本は、結婚を選択しない人に厳しい社会である。他の先進諸国に比べて非常に高い婚姻率(90%以上)がそれを物語っている。これは結婚しなくても良い人までが、ある特定の時期(個人差あり)に差し迫ると脅迫観念により結婚をしているのか?と思う。
そういう私も、親(母)からかなり「結婚しないなんて許さない」と脅迫を日々受けている。
恐ろしい。
結婚のメリットと事実婚のメリットにたいした差はないことを説明しても、そんなこときいちゃぁいない。ただ、「結婚しなくてはいけない」「結婚しないと私(母)が不安なのよ!」「あんた(私)の問題じゃない」とそればかりだ。

こうして押し問答していても埒が明かないので、もう「結婚したくない」ということは話さないようにしているけれど、まあ家をでて数年、数十年自分のライフスタイルを通してれば何とでもなるだろう。家にいては私が花開く前に腐るよ。

それにしても、法的な結婚というのはその正当性を言葉で説明できるものではないようだ。
そのようなもに、私は無意識的・無批判的に従うわけにはいかない。

「結果は、どれぞれのケースごとに背景となる当事者の意思と選択によって左右され、また、事態の発展はただ当事者の意思と選択の種類によって決定されるからである。」

素敵な言葉だなぁ。



というわけで。
当事者の意思と選択を正しく行い、
恋愛の駆け引きをしたいなぁ、人間的な付き合いを他の人ともしてみたいなぁ。自由恋愛をしたいなぁ。
と本書を読みながら妄想にふけっていた。