謙虚な負け犬

「負け犬の遠吠え」読んでみた。
http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/20040211#p1を読んでから興味を持って読んだのだけれど、私には「負け犬」がアイロニストであるとは感じ取れなかったなぁ…。
負け犬は、もっと謙虚だと思う。
勝ち犬/負け犬の構図は便宜的に二項対立として図式化されていて厳密に実際とは異なるだろうが、この二項対立の発生は時代と規範のマッチングが崩れた結果だといっていいと思う。だから、どうやったって上下関係は崩せない。時代に対して、夫・子ども無し、金あり暇ありの自分の存在を認めてもらおう、意識改革を迫ろう、という強さもない。それだけでなく、あがくだけ、主張するだけ自分の存在が惨めになってゆく。だから、自分が傷つかずにすむように、他人(主に勝ち犬)が気持ちよくいられるように、自分は負け犬と認めましょう。というのが負け犬の追いやられた胸中なのではないか、と思う。なんと世間・社会の不可抗力に対して謙虚で無力なことか!
しかし、負け犬は自分の存在を否定しているわけではない、ということに注目したい。少なくとも負け犬は打算せずに自分の好奇心に従って生きていただけなのだし、負け犬を認めた後も、その人生が続くことをも受け入れている。そんな謙虚に自己肯定しようとする負け犬が、その際に味わった負け犬の生きにくさを延々一冊分述べているのである。このような一種の被害報告書を読んで、私たちは時代に対して何も考えずにいられようか!
この本では直接、ジェンダーとか、性別役割分業意識とか、そういった視点から考察してはいない。しかし、自分に起きた出来事や気持ちを通して、しかも誰が読んでも理解できるように現在日本の負け犬差別を伝えているところに、好感が持て、支持されているのだろう。