お詫び

今から約2週間前の4月14日の日記について、様々なコメントが寄せられました。
セックスワーカーを被害者として捉えるのは当事者の一面を捉えているに過ぎないというご指摘から始まり、当事者についてそれ以外の人が言及することについてどう考えるかということを中心に、様々な議論が起こりました。



まず最初のセックスワーカーの実態や、現在の考えられ方についてですが、私はセックスワーカーを制度的なもので保護すべきもの、あるいは規制すべきものだとは考えておりませんでした。近年のセックスワーカーを労働者として考える流れを理解した上で、しかし、それだけでよいのか?と感じたことを書いたつもりでした。まったくの感想でしかありませんが、そのような感想であっても、感想以上のものを見出されてしまうというのは、私の説明不足の責任であると思います。


また、その後の議論、当事者以外が当事者を語る際にどう考える必要があるかということですが、私は第三者の視点から見ることで当事者では見えないものが見えるのではないかということを信じ込み、固執しすぎていたということがありました。他人の得た経験があってこそ私は学ぶことができるのであって、謙虚な気持ちで向かい合わなくてはならなないと再度確認しました。共存という言葉に語弊があるかもしれませんが、当事者も、第三者も、それぞれの体験、感じたこと、考えたことが尊重されるべきだと思います。そして当然ではありますが、その意見の根拠となるものをしっかり示し、どなたでも論証可能なようにし、極力誤解や不明瞭さを排除したいと思います。


最後に、私が突然日記を閉鎖してしまったことについて。
コメント欄における議論の過程で私の勉強不足や配慮不足が露呈しましたが、私は自らそれを恥じ、反省すると同時に真に誠実な気持ちで今後の勉強課題にしようと思っていました。このような状況にあって私は誠実さだけは決して欠かさないよう勤めました。この姿勢を取ることが今後私が日記を続けていく唯一の繋ぎであるように思ったからです。
また、それと共に感じていたことは、話が通じないばかりか聞いてすらもらえないという、無力感です。非難されることは一向に構わないのですが、自身の価値観といったフィルターを通して私の主張がゆがめられたり、見過ごされたりするような一方的なやり取りを悲しく、そして飽き飽きしていました。


そして最後のコメントで打撃を受けたわけですが、”あのときは”、最後のコメントはあまりにもストレートすぎて、私には耐えられませんでした。あなたは勘違いしていますよ、と言われて、全否定された気がしたのです。私が日記で自分の無知さを認め今後学んで行くことを示しても、それが行動として否定されるのではなく、『フェミニスト』としてあるまじきことと非難された私は一切抵抗することができなかったのです。じゃ、どうすればいいの?無知なら学ぶしかないのにその態度を『フェミニスト』として非難された私はそれ以外にどうすればいいの?私の主張は『フェミニスト』という主義主張に似つかわしくないということであり、私がフェミニストではないと受け入れれば済んでしまうことなのかもしれませんが、少なくともフェミニストと銘打って執筆してきた私は簡単にはそれがでず、身動きの取れない状態になっていました。そして、日記の閉鎖と脅迫的な言葉*1を残すという、混乱と憤慨と疑問とが入り混じった、感情的で短絡的な行動にでたわけです。
こんなことを言うのも言い訳のようになってしまいますが、もっと別の機会に申し出てくだされば、このような対応を取らなかったと思います。結局のところ、私がフェミニストかどうかということは、いつかは考え直さなければならないことだったと思うからです。


この日記の閉鎖の後、このコメントをお書きになった方からメールを頂きました。
それに対し、私はフェミニストではないかもしれない、というお返事をしました。
私にはそういった『型』がないからです。あるとすれば、各々が自由で自律的選択ができ、生きにくさを排除することすることへの取り組み全般を支持するということでしょうか。たとえ、家父長的役割分業意識に染まっている人がいても、女らしさ・男らしさにこだわりを持っていても本人が幸せならば、生きていて心地よいならよいのです。
私にとってフェミニストという型は不似合いだと思いました。



日記を書かなかった2週間はとても平穏でしたが、確実に物足りなかったです。
ジェンダーに関する問題に関心をもってもらいたい、また皆がどのような感想・意見を持っているのかを知りたい・共有したい、この二点にとても興味と目的をもっていたので、1人でやる勉強にはない楽しさを見出していたからです。
私は大学で生活科学*2を学んでいます。そこにはジェンダーが多く関わってきます。しかし決してフェミニズムを学んでいるわけではありません。あくまでも生活に関する範囲での社会学です。故に、イズムに弱く、より実生活・実社会にこだわるのはここに理由があると思います。よって、日記では多くの人から様々な助言を頂、私にとって(私だけにとってだとしたら全くもって申し訳ないことですが)有意義な場所でありました。
いつか、『サロン的な場所にしたい』と申しましたが、今もそう思っています。
各々が知っていることを自由に述べ、知らないこと収集する、お互いを理解する、それが満たせるような場所ができたならよいなと思います。
図々しくも、また、日記をはじめたいと思います。

最後に、様々な人にご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げます。
そして、今後ともよろしくお願いします。

*1:といっても事実なのですが、脅迫的な意味を込めている表現がまずいだけでなく、そもそも書く必要も無いことです

*2:生活政治学、生活経済学、生活法律学、福祉学、老年学、家族関係学など