「ジェンダーフリー」教育現場から全廃 東京都、男女混合名簿も禁止産経新聞(8/13)

男女の性差までも否定する過激な男女平等教育の背景になっているとして、東京都教育委員会は十二日、「ジェンダーフリー」という用語を教育現場から排除することを決めた。学校での「ジェンダーフリー思想に基づいた男女混合名簿」の作成も、禁止する方針。月内にも各都立学校に通知し、二学期からの実施を目指す。このような決定は全国で初めてで、今後、各方面に大きな影響を与えそうだ。
 「ジェンダーフリー」は、その意味や定義がさまざまで、単純な生物上の区別や「男らしさ」「女らしさ」といった観念まで否定する極端な解釈もされている状況。
 これに対し、都教委は「意味や内容が使用する人によってさまざまで、誤解や混乱が生じている」として、「都教委が目指す男女平等教育とは異なっており、今後は『ジェンダーフリー』という用語は使用しない」ことを決めた。

東京都内では今年4月現在、小学校81%、中学校42%、全日制高校83%で、男女混合名簿が導入されている。(産経新聞


なぜ、それほどにジェンダーフリーを性差の否定とみなし、それによる性差の消滅を危惧するのか。
これについてとても興味を持っている。
石原都知事のHPから、性差の消滅に危機感持っている理由をうかがうことが出来ると思う。

彼の
教育論
のうち、”父親が子に伝えるべきものとは”というテーマで書かれた小文のうちの一つが象徴的。

父親というのは、いったい何だろうか。
 どうも、この現代になればなるほど、家庭の中でも、社会の中でも、父親すなわち男というもののイメージは薄れていくような気がしてならない。
 女が強くなり男が弱々しくなっているという現代の徴候について、ある歴史学者は、「戦争をしている国家、民族というものの中では、つねに男が女より優位であり、女より美しかった」と言っていたが、それは人間に関わる、あるいは歴史に関わるひとつの公理かもしれない。
 幸いに、現代の日本では戦争の心配はほとんどありはしないが、そうした極限的な緊張感を失ってしまった、いわばソフト化された文明社会の中で、男と女の位置が転倒し、父親の存在が希薄になるということは、家庭にとっても、人間にとっても、社会全体にとっても、決して幸せなこととは言えないはずだ。
※太字は筆者(私)による。

そうですか、そうですか。
明治時代における「近代家族」のイメージにまだ囚われているようだ。
常に男が女より優位で美しいということを公理だなんて言っているが、その歴史性を無視して良いわけがない。公と私の分離(男女の役割分業。国のために戦争に行く、産業を担う父と、国のための戦士を生み育て父不在の家を護る良妻賢母)は近代の産物であるということを知らずに、安易に歴史学者の発言を用いているところが可笑しい。
”男と女の位置”って…。確かに、現在タテマエ上では男女平等ではあるが、男の優位性は社会のなかに隠された形で潜んでいる。ゆえに、その問題性に取り込もうとしているの現在において、むしろこの隠された構図を見える形にしようとするだなんて、はなはだ時代錯誤というものだ。

いろいろ書きたいことがある

また追加ということで。
また明日。