研究とは何か 〜フェミニスト的、戦略的研究の勧め〜

id:shinimaiさんのお勧めで「文学とは何か」を読みました。

新版 文学とは何か―現代批評理論への招待

新版 文学とは何か―現代批評理論への招待

第1章〜第5章まで着々と現代の文学理論について詳しく説明し、歴史的に押さえてゆくのですが、突如あれれ〜?本当にそれでいいの〜?(喜)という方向に。
「結論 政治的批評」に大興奮。まったくもう。

文学批評の言説には確固たる記号内容は無い、ということはこれまでの章を読めば誰もがわかるし、予想できることなのだが、しかしイーグルトンはさらにその先、そう、文学批評を、そして文学をもそれらの権威、権力を、「文学批評の言説がいかなる対象にも応ずることが出来るというその無限の適応性」を述べることによって、それらを取り崩して、形骸化させていく。文学は幻想であり、文学理論もまたそうである、と。

このように考える筆者は、こうした文学理論に対して、別様の言説――さまざまな文学理論が扱う対象(つまり「文学」)がふくまれる、がしかしそれは、「文学」をより大きなコンテクストのなかにおくことで、「文学」そのものを変質させるであろう――をもって拮抗させようとする。

まず、筆者はある特的の効果を達成するために言説がどのように構築されるかについて検討を加えた「修辞学(レトリック)」への回帰―しかし、完全なる回帰ではなく、現代の文学理論を用いた―に倣うことを提案する。
また、同時に、修辞学の言語分析に伴う「利害」の発展の側面に注目し、前章であげたイデオロギー的価値の不可分性をあげ、すなわちあらゆる批評は政治的批評であることを喝破する。
そして、以上から文学理論における「別様の言説」とは、それは存在論的なものでもなく、方法論的なものでもない、戦略的なものであると結論付ける。つまり、「なぜ私たちはその対象との関わりあいを望むのか」を問うことが必要なのであり、そしてこのように戦略を決定することは、自ずからどの方法や研究対象がもっとも有効となるかが決まることとなるのである。そして、そういった多様な「諸目標」に合致する多様な活動の中に「文学」と称されてきたものの研究が将来含まれることになるのだ。

「文化の記録で同時に野蛮の記録でないようなものは決して存在しない」

は名言。感動。


そして、文化そのものを超えた意義を帯びる時と場所(文化活動と政治活動とが密接に結び合わされる場所)として

  1. 帝国主義からの独立を求めて戦う国々の生活
  2. 女性運動、フェミニズム
  3. 文化産業(メディアのイデオロギー装置)
  4. 労働者階級にふさわしい文字表現を求める運動

を挙げ、テクストの断絶された歴史への解放、形式主義批評の隷属からの解放に期待を寄せている。



本当に、この本、読んでよかったです。
私の論文構想をその構想の脆弱性からではなく、テーマの対象や私の目的意識(戦略)を批判した人に読ませたいくらいです。