ネカマとか

なぜ性別を偽って日記やブログを書くのか。
の答えを飲みながら考えて、
やはり、性別を違えなくては話すことができない何か(話の内容、話のスタイルなど)があるはずだという結論を得たのです。
例えば紀貫之
紀貫之は「をとこもすなる日記というものを、をんなもしてみんとてするなり」と女として日記を書くのですが、それは、日記(=漢文=男の文化=叙事的)を、叙情的(=女の文化=仮名文字)で書くためには女になりきる(女としてかな文字で書く)しか方法がなかったからであります。
では、実際に現代の社会も紀貫之の時代と同じように、性別によって文化が明確にカテゴリー化され、役割の超越は許されなかったのかというと、一見、男も女も同じ言葉を発し、同じ内容を発しているように見えるため、そうではないようにおもえます。
しかし、ネカマといった性別を偽って書く手法が存在するということは、あながち、女性固有の、男性固有の文章の表現方法や表現内容がないと簡単にはいえないように思えます。どちらかの一方の性にしかない特徴と言うのが、文化的に、伝統的に存在するのです。
よって、フェミニズム批評に取り組むことによる逆の政治性、つまり、男女固有の語り方の存在を語ることによってむしろ生物学的決定論に陥っているという指摘は、単に歴史的背景を切り捨てて、形式的な構図のみを問題にしているのであって、なんら批判にはなっていないのです。そう思います。
だから、次に私がなすべきことは、どのような女の、男の言葉があり、それらはどのように形成され、どのように用いられているのか、男女間を規定するのかを考えることなのですが、それは大変大変大変なことだと承知しているわけで、当然答えなんかまだないのであります。