「運命」

わたしちは世界の全ての事象に<意味>を与えたがっている。
<意味>を知りたがっている。
そして、そもそも<意味>があると信じている。



不気味な記号の羅列、偶然の一致、そしてその連続、などなど…。
そういった「不可思議だ」「起こりえないことが今まさに起こっている」と感じたとき、わたしたちはそこに<意味>を見出さずにはいられないのであり、それは、より重要とみなしている或る<意味>の根拠に―それはそれは劇的で感動的に―仕立て上げたいから、そうさせているのだといえる。
つまり、<意味>は、主体がある現象を、なんであれそれよりも「重要」だと彼/彼女が見なす、ほかの物質的ないし心的な事物に結びつける際の関係のことだ*1




と、突然わけのわからんことを冒頭に述べたのは
ここ最近「『運命』ってなんなのかな?あるのかな?」
と、「運命」のメカニズムについて、言語論的解釈にヒントを得て、共時的かつ通時的に追求していたからであります。
※ちなみに、ここで私が問題にしている「運命」とは、「あの日、あの時、あの場所できみに会えなかったら僕らはいつまでも見知らぬ二人のまま〜」と小田和正の歌みたいな、物事の伏線を常に感じることで現在の選択に価値を置くような話のことを指します(refer to talking with shinimai )。決して「運命」を超現象的な力が引き起こしたものと捉えたいのではないのであしからず。しかし、「運命」という言葉の記号性について語るときは、その超現象的で予期的な概念を指します。


そして、結論は冒頭以下の通り。


「運命」という言葉は、自分が価値をおきたい対象(A)と、ある意味づけしようのない現象たち(B,C…)とを後付け的に関連付ける。それによって、個々の共時的な現象(B,C…)が、時間軸(通時的)に沿って配置され関係付けられるため、それらがあたかも現在(A)に向かって予定調和的に行われた、導かれたかのように錯覚させる力を持つのだ。言い方を変えれば、「運命」という言葉を用いる主体にとって、結果を引き起こした客観的な原因や理由などは不必要且つ無意味なのであり、主体がその対象に<意味>を与えたいという事実が重要なのである。よって、「運命」を感じるとき、それは決して未来を展望している行為なのではなく、むしろたどってきた過去や、汝という人生の固有性を再認識する行程なのだが、しかし、実際に主体が望んでいるのは「運命」(という記号)がもたらす未来への希望なのである。



よって、何が言いたいのかと言うことなのだけど。

私は「運命」を感じ事象の重要性を実感することで、ぼんやり垂れ流しの日々に蛍光色のインデックスをつけたいと思うので、これからも勝手に「運命」を感じることにしますが、もしもその「運命」を感じた事象に他者が介在するならば、その他者に汝の「運命」を押し付けません。


という宣言をしたかったのです。

*1:参考:レオナルド・ブルームフィールド。<意味>のシステムは無限に開かれており、その全体を知ることは不可能である。