どんな事態でも筆は置かない

できることはそれだけ。
数々の悲しみは確実に私の力になっている。
悲しみを表現せずにはいられないだけで、決して悲劇のヒロインを演じたいわけじゃない。
過去最大のビッグウェーブの頂においてそれだけの前向きさを保つことが出来る、この五年間の…。


** 


さてさて本題。
フェミニズムを再考しようと思っている。
自分の中での大大プロジェクト。大きすぎて手に負えないかもしれない。でも、そんなときは誰か手を差し伸べて。おねがいね。



今日はひどく熱があるので、書けるだけのささやかなイントロを。


竹村和子の『フェミニズム』(2000,岩波書店)にて、竹村氏の言葉にひとつ気になったところがある。「ジェンダー論」を学ぶ「学生」の私は、これまで見落としてしまっていたところだ。

現在のフェミニズムの理論はあまりに「理論的」で、実践や運動から乖離しているという批判が、フェミニズムの内部からさえ起こっている。しかし理論の軌跡はつねに、過去の実践が経験してきた困難さやアポーリアに分け入り、またそのすぐそばまで来ながらも避けて通ってきた事柄に対峙して、わたしたちの生の荊棘を解きほぐそうと試みる現実的で内在的な願いの軌跡である。(p.醞)


つまり、フェミニズムの理論は「理論的」に編成された現実の困難の解決を試みる実践や運動に内在するというのだ。しかし、「乖離」とはそういった理論の存在や近接性を意味しているのではないと思うの、というのが今回の気づきである(と、たいそうなことではないが、バカ真面目な私にはそういう視点は欠けていた)。実用に耐えないのではないかという、厳しい理論を前にした素朴な疑問から発しているのではないだろうかと。正直、理論武装していて、理解を得られることは滅多にない。私の説明が下手なのか?そういうことはないとは言い切れないが、そうじゃないことが多い。あまりにも共感を呼ばない理論なのではないかと思う。正しさと理解しやすさは実践を試みた私にとっては次元が違う。
どうしたら、実践に耐えうるフェミニズムになるのだろうか。
これから考えて生きたいのはこの点においてである。
自分のために、そして、etc