スランプは昨日まで

修士論文について悩んでいた。
インターネットというサイバースペース内での女性の主体性の獲得について。
問題への関心は、まず、サイバースペースという身体性の希薄な空間で、いかに女性が主体性を獲得してゆくのか、どのように自分のジェンダーを演じるのかに興味があった。さらに、サイバースペースで欠かせないのが、単にヴァーチャル化するだけではなく、そこにコミュニケーションやそれに基づくコミュニティがまるで生態系のように自然に発生、増殖するところにある。
教授に、私のメディア論ベースのインターネット(主にblog)研究に対して「メディア論じゃないの、フェミニズムよ!」といわれ、その後1ヶ月くらいフェミニズムという方法論をいかにして使用するかについて悶々としていた。フェミニズムって何?と、襟を正して「フェミニズム」理論をおさらいしてみたものの、今の関心に対して従来のフェミニズム理論はあまり役には立たない。「フェミニズムも第一波、第二派、そして現在と変わってきたわねぇ」、「リベラルフェミニズム、ラディカルフェミニズムが戦略的に「女」を強調してきたけれど、ポストモダンフェミニズムで「女」の多様性を強調するあまり、フェミニズムが換骨奪胎されてしてしまわなければいいわねぇ」と思うくらい。
誰が「女」かも分からないような、主体のアイデンティティなど変化自在なサイバースペースでは、これまでのフェミニズムは使えない。仮想社会という次元に対応できていない。そういえばマルクス主義フェミニズムも、精神分析フェミニズムも、ポストモダンフェミニズムも、どれもこれもそれぞれの時代の主流の大きな理論に対してフェミニズ的に再構築することから起きているのだから、インターネットという別次元の登場に対しても同様に、それの理論を踏まえ再構築するような理論を打ち立てなくてはならないのだ。そう考えると、その一つの可能性として90年代ごろに登場した、サイバースペースにおけるメディア論などの社会情報学を踏まえたフェミニズム、つまりサイバーフェミニズムというフェミニズムの視座からインターネットを考察することがもっとも適切であるということになる。フェミニズムを視座とするなら。
一方、もしも、この新しい理論を用いないで方法をとるとしたら、サイバースペースを一つのフィールドとして女たちの主体性の獲得や女たちの意識向上の場としてのSNSやblogと言った形で、エクリチュールフェミニンやガイノクリティクスといったフェミニズム批評などのラディカルフェミニズムの視座から分析することになる。でも、それでは目新しさに欠けるし、私の興味へのピントがずれる。

うん、そうだね。サイバーフェミニズムだ。
やっと意思が固まって晴れ晴れ。

るんらら るんらら。