ストレスと食べ物と体重

誰にとっても、ましてやこの世界にとっても、非常にくだらない、だが私には大いに問題である話をしようと思う。
1年ぶりくらいに体重を計った。大学一年以降、3キロ太って2キロ減る♪という具合に増減を繰り返していたら、いつのまにか10キロ以上太っていた。驚いたねこりゃ。本当に驚いた。以前が痩せていたということもあるけれど、この増えっぷりに驚いた。樽ドル未満(樽ドルほどにかわいくないということ)。ただの太り気味だ。しかし、10キロ以上太ったというわりに外見の変化は少なく、昔の服もきれる。そして元々顔は丸い。じゃぁ何が増えたんだ。当然脂肪もあるけれども、ここ1年ジムに通ったり自転車通学で筋肉が付いた成果だ、身体密度が高いくなったんだ、とても充実した肉体であるためだということにしておきたい。私が肯定的に考えるほどに現状に対してポジティブで、独自的で固有な身体観を持っているのならば。


高校3年のときにダイエットをした。栄養素の知識や食品のカロリーなど主流なモノはほとんど覚えて、主に食事制限で半年で8キロ痩せた。痩せて様々な服が着れた喜び、身体に関するストレスの軽減、全面的な自信などプラスの側面が多かったが、やはり皮膚が弱くてすぐに痣になったり、生理が1年こなかったりと身体的に弱くなっていた。それと、ご飯は野菜ばかりだし、たくさん残すし、間食しは絶対にしないし、友達とお菓子食べるときですら断って手をつけなかったなど、頑固な一面があった。
それが大学時代、飲み会があったり、彼氏ができたりと、男の人の食べっぷりを見ていたら、ご飯を残すという精神や、食事制限中のコミュニケーションを欠いた頑固な態度に醜さを感じ、無理してでも食べきるようにしていたら、次第に食べる量が増えていった。痩せていたこのときは、特に食べることによって太るだなんて考えもしなかった。
ところが、大学2年の時にパン屋でバイトしたことが以後太りはじめる大きなきっかけとなる。バイトの女の子とともに、トレーいっぱい(2人でトレー3枚くらい)の廃棄前のパンやケーキをむさぼり食べていた。しかし、その子はとてもスリムで、食べたパンを吐いていた。私はいつのまにか急激に太っていた。
こういった経験をしつつ、食べる量が増えるにつれ、ストレスの発散場所が食べ物に向かってしまった。食べるという行為は、頭の混乱を一時的に停止させ脳内を快楽で満たす。とりわけ甘いもの、やわらかいもの、炭水化物、炭酸は頭にヤバイ。食べたところで気分が転換されれば良いのだが、その快楽は中毒を引き起こす、というか、口に意識を集中させたいとう衝動は行動としてもはや退行しており、気分の転換どころではない。単なる欲求であり、依存である。今考えるべき問題を先にのばすだけだ。今はもうパン屋のバイトもしていないが、しかしその傾向は治らずに、ストレスに逢うと食べずにはいられなくなるし、食べた直後には、ますます醜悪になることへの恐怖が伴う。ストレス→食べる→(太る→)自己嫌悪→ストレス→食べる→…というスパイラル。もうそろそろ、やめたい。痩せたいから、といよりも、ストレスを感じる自分にそもそもの問題の根源を感じるからだし、この自己評価がどんどん下がる悪循環全体に手をうなたければ、次第に年齢という条件も加わり、より悪循環からの脱却は難しくなるから。


では、ストレスの一因が、ストレス解消であるはずの食べることからもたらされる肥満であるという悪循環を断ち切るにはどうしたらよい?
・ストレスの解消を食べ物に求めないこと。
・ストレスの解消のためには、直接ストレス元を解消すること。
・ストレス元を知ったら、ストレスを回避する術を身に着けること。
・ストレスをストレスと感じないこと。
・理想の自分と異なっていようと今の自分を愛し、理想への努力をすること。
・だめな自分に酔わないこと。
・人と比較しないこと。


わざわざ体重や悩み的なことを日記に書いているが、誰かに相談したいとか、解決法を望んでいるというわけではない。書くことによって、書かれたものを読むことによって、今の自分の状況を知りたい、自分を好きになりたい、という思いがある。「体重」(細く引き締まった外見)という問題は、常に私の中で上位に置かれており、解決されるべき問題に上がっているものの、体重を気にする自分、体重を気にしていても行動に移せない自分、痩せている人を羨望の目でみる自分、痩せている人のメンタルを馬鹿にする自分、というように、自分が痩せたいという欲求が強すぎるあまり、超自我が過剰に抵抗を示してしまい、結果どちらにも身動きできない苦しい状態が続いていたのだと思う。欲望に、少し忠実になってみても良いのかもしれない。環境の中で自己が定義されることに対して、忠実にならねばなららい自分の弱さを知りながらも、その環境が求める価値と同じものを身に着けたいと思ってしまったことに正直にならないと、自分の内部で、さらには外部にまで鬱積した悪い感情がでかねない。だから、私は、痩せようと思う。


さてさて。こういう超私的な葛藤を書くことは、恥ずかしいことなのか。問題があることなのか。
少なくとも私は、シクスーの言うように、自分の身体から言葉や言論を出発させている。発する言葉から答えなど求めていなく、それは単に答えに連なる一連の議論の「始まり」なのである。錯乱的で誌的で飛躍的な心の状態を、自分の位置からそのままつづっているのである。こういった女性的な文体を、それを書く私自身を、”自分のことしか考えていない”と親切にも”諭す”こと、それこそ男根中心主義的で、価値統一的で、自己中心主義的とはいえないか。