反貞女大学

反貞女大学 (ちくま文庫)

反貞女大学 (ちくま文庫)

あーあー。熱にうなされながら、三島由紀夫の女性論(「反貞女大学」昭和40年)・男性論(「第一の性」昭和37年)を読む。
頭が回らなくてよかった。この人はなんとまぁ差別的で適当で明治時代のような文章を書くのかしらと思いながらも、深く考えるのを停止してエッセイとして楽しめたから。
「反貞女大学」は「女大学」をもじっており、ちょうどフェミニズムの萌芽の時代に産経新聞の連載として書かれたもの。基本的に、当時理解されていたであろう男女の性差に忠実であるものの、随所で女性のほうが本質的に優性であることをほのめかす(あまりにも女性の置かれた立場を無視しているとしか思えないが、男性は女性よりも劣っているから女性より多くのことを学ばなくてはならなかったという言い方をする)。また、これまで耐え忍んできた多くの貞女の苦労をたたえ、しかしその拘束をいかに解き、いかに精神の自由を楽しむかについて、貞女を強いる社会や夫をすり抜けて自分の欲望(と言ってもその欲望は婚外で実現されるのだけれど)を実現させるための方法を、たとえば「第三講 空想学」というように講義の形で進んでゆく。こうして様々な反貞女のあり方を示すことで「絶対の誠実」などはない、それだからこそ人間は気楽に人生を生きてゆけるのだという哲学を色々な形で展開しているのだそうだが、それを伝えるには反貞女の主な講義の主題、不倫という性愛への欲望の実現という例では少々難があるわけで、多分、講義の内容はどうであれ、虚を付き皮肉を言う際の視線が重要なのであろうよ。
「第一の性」はそのまんま。ボーボワールの「第二の性」をもじって、男性とは何かを展開。「第一の性」と言ってしまえるのは、ボーボワールがいたからさ。ふふん。
一つだけ面白かったこと。なぜ、男は鉄の機械を好むのと同様に女のおっぱいを好むのかについて、同じ科学的探究心から出る対象への欲望だが、好みとしては別なのだと考えた末、「さて、もし機械と女が合致したらどうなるだろう」とサイボーグの夢へと思いをはせる。

ここには男の究極の夢があります。それはすばらしい美女だが、人造人間ですから、根本的な謎はない。謎がなかったら飽きるだろうと思うのが浅墓なところで、男がこんなに本気になって、安心して、心から愛し続けることのできる女性はない。なぜなら、機械としての美女はあの抽象能力の産物でありますから、つまり、男性の頭脳から生れた存在であって、男にとって、純粋な幻、純粋な夢、決して裏切られることのない美、というものは、自分の頭脳から出たものしかないわけだ。それなら、完全に信用でき信頼できる。そこに男にとっての永遠の女性の姿が出現したわけです。

しかし、その男の頭脳からでた幻想は、生身の女たちの謎に満ちたイメージから形成されたものであって、それを機械に投影しているということは、単なる堂々めぐりでしかない。「永遠の女性の幻と夢が大切ならば、そもそも人造人間などという実体は不要なわけで、人造人間の美女という存在自体が、実はなくても良い、あるべきではないものになってしまいます」というわけ。
なるほど。究極の女性は頭の中にさえも存在せず、その言葉だけが一人歩きしているわけね。だから、ここに、様々な性を売る産業が成り立つわけか。