サイボーグ・セクシュアリティ

昨日の「映像表現とジェンダー」研究会より*1 
攻殻機動隊』ラブ☆な人々(しかもゴージャスな顔ぶれ!)が集まり、非常に興味深い議論が多数出た。
やっぱり、草薙素子のセクシーな服装(革ジャンと下着のような服というコーディネーション)について盛り上がったけど、それが、欧米の娼婦の姿と酷似しているという指摘は、ちょいと面白くおもった。まぁ製作者の意図に、それはさそうだが。


発表者のサイボーグに対する考察を、色々な意見などを踏まえてまとめると

  • サイボーグはジェンダー記号によってブリコラージュされた存在である。…(前提)
  • それ存在は、生身の人間に伴う「自然」という文化イメージ(すなわち「象徴界」)をまとわなぬため、「文化のなかで習得した知識では語り得ない」存在である。
  • つまりそれは「現実界」の産物。「現実界」を象徴している。「現実界」を知っている。
  • 現実界」を夢想することは、「サイボーグたちのサイボーグ的な快楽」
  • よってサイボーグ(「現実界」)に思考をめぐらすこと(「現実界を夢想するサイボーグ的快楽」)は、思考を続けるということであり、それは、ジェンダーにおける二元論の突破口になるのではないか。

ね。興味深いでしょ。

一点だけ、議論を明確にするために確認したいことは、「現実界を夢想するサイボーグ」の意味が分かりにくいということ。何度読んでも分からない。なぜ、現実界の存在であるサイボーグが、現実界を「夢想」するのか。つまり、現実界の存在であるサイボーグが「夢想」するのは、自分の立っている現実界であるということと、あえて象徴界の記号を身にまとっていることとが、相容れない気がするのだ。前者の理由が明確になれば、また、私も疑問も解決するのだと思うのだけれども。前田さんよろしくぅ。
そして、また一つだけ。「夢想」という言葉は、ダナ・ハラウェイが多用している言葉だが、今もなお私にとっては非常にあいまいで、そして、分かったようにさせてしまう危険な言葉である。そうそう、「快楽」も同様。どちらの言葉も、その内容、それが差し向けられている対象、対象といってもその厳密なところをすっ飛ばして、突如、自分自身が「夢」や「快楽」に取り込まれてしまったような感覚に、つまり肌で感じるというか、直感的な理解をもたらすので、うん、やっぱり理解する側として注意しなくちゃいけないなぁと思う。


発表中に紹介してくれた、ファルスをシャンパンのボトルに栓をするコルクに見立て、ビンの中に「現実界」、ビンの周囲を「象徴界」という、竹村先生オリジナルのイメージを活かせば、
前田さんの主張の理解には、サイボーグという身体を”ブリコラージュされた心もとない「ファルス」”に、「ゴースト」を”名づけえぬもの=「現実界」”として置き換えたイメージで理解すると、非常に理解しやすくなるのではないかと思う。
サイボーグが身体を軽視することは、すなわちファルスへの抵抗であり、現実界が放出する場面である。そして、私たちが、サイボーグを「夢想」することは(やっと、夢想という言葉を安心して使える)常に自分というものを問い、問い返す作業を行うことになる。



<疑問というか余談というか>
レヴィ=ストロース「ブリコラージュ」(『野生の思考』)よりもネグりとハートの「マルチチュード」(『マルチチュード〜<帝国>時代の戦争と民主主義』)のほうが概念として適しているという、とある男性からの指摘があった。
グローバリゼーションを前提にサイボーグを考えるのであれば、確かに後者のほうがよろしいように思うが。どうなんだろう。大衆やサバルタンに対して、この言葉を用い、抵抗の主体と読み替えるにはいいが、草薙素子に対してはどうなのだろうか。仮にも国家が生み出した組織内の「少佐」である。


そんな感じ。

*1:攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』サイボーグ・セクシュアリティ現実界を夢想すること〜:前田