ネットの「私」が召喚されても、そこに「私」などいない。しかしそれは確かに私なのである。

たとえ論文中間発表のレジュメが出来上がっていなくても、
私に声をかける勇気ある人がいる限り、
どこへだって会いに行くんです。
そんな蒸し暑い私と夏の午後。
というわけで、とあるmixi内コミュニティ運営者である私は、ある熱心な学生団体にゲスト?として急遽呼ばれ、東大本郷に参上。議題は’mixiに見る若者の自意識’という内容であったようだが、基本的に、ざっくばらんにmixi内の事象に対する「違和感」や、mixiという空間と現実社会との相違などをについて、半ば連想的に考えるというスタイルて議論。
このテーマに関連する研究をしている私にとって、その議論の中身よりも、その過程や、直感的な意見を聞ける貴重な場にめぐり合えたことが、嬉しかった。
また、概してmixiを客観的に捉えようとしているのだが、mixiの主流部分(とみなしているものを)傍流(といっても、皆にとっては正統性を持つ)の側から否定的に言うことはどうかしらね。だれもが、簡単に、今すぐ始められる、友達の友達は友達的なゆるいコミュニティを形成することができるのが、ブログにも、BBSにも、その他ほかのCMCにない特徴だが、それによって得られる人的サポートの効果について、考えてみたらどうかしら。このメディアをどう使うか・使われるか、よりも、このメディアがどういう効果をもたらすかについて考えなきゃ、立場や主義の異なる各々の経験を述べるのみで終わってしまうと思うのよ。

さてと。mixiのあの子たちが私のページにとばない限り、読まれる可能性の低いこの文章を、いかにして後始末すればいいのかしら。トラックバックでも送ればいいのかしら。それが日本人の礼儀というものかしら。それで、私、「空気よめ」ている?何もせず、読まれることも期待せず、しかし読まれることを待つのはだめかい?それほどに主張したいことでもないというその理由。そういう立ち居地は、mixi的?(初対面だし馴れ合っていないけど)馴れ合い的?
私は思うのさ。伝えたければ伝えればいいし、独り言ならそれでもいいって。
というのもこの広い空間にいる限り、いつか、別の誰かが拾って、それを広げ、解体し、組み立てなおしてくれるから。

そういうわけで、今日は(先に述べたレジュメ作成のため)貫徹必須、締め切りギリギリであるため、そろそろネットから立ち去って、残されたことばに託すとします。