母親問題が根深くて ―ディスコミュニケーション以前―

疲れた。
そんなときは、ネットにダイブ。
ネットにいる私は感覚がバラバラで
実際の生活ではこんなに嫌なことがあったというのに
そのこととは全くお構いなしに
それぞれの場所の時間、言葉、空間が流れ続ける。
時にそれらの空間は
ひと時の開放を与えるかもしれないし
リアルでは得られないような、
暖かい人の言葉に励まされたりするかもしれないけれど
それと同じだけの頻度で
傷つく可能性もある。
しかし、
私は
言われた言葉、その内容には傷つかないが、
私のいる場のルールが全く通用しないということに直面したときに
相手の言葉の様式で話せばよかったのだろうか、
では私の言葉はどうなるのか、
といった
言語的な問題でも、精神性の問題でも、能力的な理解の問題でもない、
コミュニケーションの様式の違いという文化的問題の根深さを実感して
一人悲しくなる。
それは、ネットでもリアルでも、話し言葉でも書き言葉でも変わらないことであり、
私の母親との問題も、私のネットでの問題も、要はこれに尽きる。
私の言葉を伝えようと努力すればするほど、その言葉は様式の中で理解され、意味付けされてしまうことは避けられないのであり、つまり、コミュニケーションの様式の違いが浮き彫りになるばかりで、結局私たちは自分の場所から身動きが取れず、常に誤解・誤読の危機に直面している。私は、理解のためなら、自分の様式を捨て去りたいのだが、しかし、相手の私の属性に対する期待が、これを脱ぐことを許さない。もはや私たちは会話をしているのではなくて、属性の提示し合いをしているのではないかと感じてしまわずにいられない。(しかし、私は、このことを理解できている分、幸いであると思う。)
それにも関わらず、
ネットで安易に私に興味をもって、私に接近してくる人は、
私のことを理解できていると思い込んでいるし
また、同様に私がその人のことを理解できているはずだと思い込んでいる。
しかし、バラバラになった私は、それぞれの場所で、その様式に則って匿名性の中で、あるいはchidarinn、あるいはリアルな「私」(といっても一体何が「私」なのかは現実社会、ネットどちらにおいても分からない)として自分を演じている。
ただそれだけだ。
そこで使われている言葉で、そのやりかたで、言葉で遊ぶ。
それを、私の属性にひきつけて、私の語りを読み解こうとしても、何も理解することはできまい。
私がばら撒いた言葉を集めてみても、私が出来上がるはずもない。形にすらならない。
私という元来掴みえぬ存在と、各々の場所で演じている私とを、直接的に結びつけて解釈することの暴力を、このネットの時代になってやっと明白になったのではないかと感じる。

「私」は、母の子であって、
「あんた」や「お前」と呼ばれ、人格を否定する言葉で罵られたくはない。
「私」は、ここではchidarinnであって、
ネットでの私の一部を見て、それを「私」として評価されたくもない。