ブスであることは、心理学者であることだ。

クィア・ジャパン (Vol.3) 魅惑のブス

クィア・ジャパン (Vol.3) 魅惑のブス

「美という評価基準 −心の中の問題−」吉澤夏子

【メモ】

男性優位の社会の構造を批判するフェミニスト=男に相手にされないブス

☆美という評価基準が、男性の男性のためのものであるという事実

よって、フェミニズムは男性による「差別の二重化」(男/女だけでなく、美人/ブスというもう一つの差別)という現象をそのまま体現する、ミス・コンテストを批判してきた。さらに、この「差別の二重化」は、美という評価基準が適用されるべきではない領域にまで影響を及ぼす問題がある。

こうしたことが、女性たちの間に美醜をめぐる不平等感を醸成する。
しかし、ブスの不平等感を掬いだし、社会的に告発することにはかなりの困難が伴う。美醜をめぐる不平等感は社会的文脈と個人的文脈が分かちがたく交錯する場面にたち現れるものであり、それをすべて社会的文脈に回収することはできない。つまり美醜の問題は、究極的には個人的に解決するべき問題なのである。

よって、「差別の二重化」について語りうるということは、ほとんど客観的だと言い得るような美についての評価基準がこの社会に厳然と存在している、ということについての、直感的な確信をわれわれが共有していることを意味する。
美醜をめぐる基準や判断、人を好きになる理由はきわめ個人的なものであり、そして実は、このことこそが「問題」なのである。告発しえない、論証されえないからこそ、美醜をめぐる不平等(感)は切実なものになる。

そうだそうだ。誰にも解決できない、自分だけの問題は、切実さ。解決できない分、何か別のモノのせいにしたくなるしね。言われた言葉を分析せずにはいられないしね。


この前提を踏まえ、吉澤は、「ブス」という言葉は人を傷つけるか?と問う。

「ブス」という言葉は、それが発せられたとき、その解釈をつねに正反対の二つの意味(ジョークを装った真実の判断の吐露(つまり薄められた悪意)なのか、逆に好意の屈折した表出なのか)に開かれたものとして聞くしかないのである(言葉からは判断できない)。(P120

※括弧の補足部分は、chidarinnによる

だから、解釈の開かれた言葉である「ブス」という言葉は、その真意が最後まで不確定にとどまるし、それが個人的・主観的評価であるがゆえはっきりした否定的評価として認識されることはない。しかし、「ブス」と言われた人に対して、第三者が、いいや「普通」だよと言った場合、むしろそちらのほうが、美という評価基準の存在をその場にいる人に意識させるのだという。
つまり、「単なる個人の判断や評価が、第三者に表明されることによって、いやおうなく社会的な意味づけをもってしまう、そのことが人を傷つけるのである」(P121)


でもさ、このように「ブス」という言葉の持つリアリティについて考えて、「ブス」は個人的な評価基準だから傷つかなくていいというのは、説得性に欠けるように思う。結局「ブス」という言葉が発せられた時代背景、状況、関係性、その言葉を受け止める本人の問題意識の度合いなどなどを考慮せずには、「ブス」の意味やその深刻さは測れない。「ブス」という価値評価が個人の問題であるゆえ、それを言うほう、言われるほう、それらを客観的に聞くほうの個人的な立場性が関わってくる。「ブス」という言葉の裏には複雑に意味が絡みつく。だから割り切れない。ブスは、その意味を考えさせる言葉だし、いったん考え始めたら、とまらない。深刻なんだって。「ブス」という評価は個人的だから気にするなといっても、人々は、その個人的な評価で毎日一喜一憂しているんじゃないの?美容整形産業が栄えているその事実は?と思うのであるよ。他人の評価、男性優位社会の基準を気にする必要のない、強いものを持っている女性の言えることじゃないの?と思う。
美醜は個人的な部分であってフェミニズムの問題ではないと吉澤は言うけど、私は、うまくいえないけど、個人的だといって割り切れるものじゃないわ、と思った。


というわけで、ブスなりに、「女らしさ」を振りまくバイトに行ってくるのだ。