性を買う側の欲望は受動的か?

のざりんさんの10月14日の日記「売春という欲望」を読みました。
"世界、障害、ジェンダー、倫理 - 買春という欲望"
これは、ピギフェミさんの日記「受動性の肯定」を受けて書かれたものです。もしかしたら、ピギフェミさんの文章を先に読んだ方が分かりやすいのかもしれません。

さて。
ピギフェミさんの着眼点は、買春をする側の欲望のメカニズムです。
最初、ピギフェミさんは、性にお金を払う行為の意味に着目しました。
性にお金を払う行為とは

  • 「相手にとって自分が、お金を貰わなければ性的関係を持つに値しない対象だと認めること」
  • って、関係を求めることそれは売る行為と比べ物にならないくらい、自分(相手ではなく自分)を貶める行為

ということです。
なぜ、買う側が劣等性を持たねばならないのか。私には、これでは買い手が潜在的に性的に劣っていることを前提としているように読めてしまいます。いや、言いたいことは大体分かるのです。でも、「値しない」といった価値評価は不要であって、単純に「お金を払わねば関係を作れない」、反対に言えば「お金を払えば誰しも関係を持てる」わけです。しかし、実際は売り手側による買い手の選択が事前に働くので、誰しも買えるとは行かないのだと思いますが。そういう意味でならば、私は、売り手は主体的であり、買い手は買う許可が下りるのを待つ(受動的)な状態にあると言うことは出来ると思います。

先に進めます。
前にピギフェミさんは「お金を払う」こと、買う側に対して劣等性を持たせていますが、なにやらこれには理由があるようです。
そもそも、ピギフェミさん自体が、自分自身の性を積極的に肯定していないからのようです。

でもそこまで考えて、私がそんな風に思うのは、自分自身の性を「求められてナンボ」のものとしか考えていないからなんだと気づいた。それが「愛」じゃなくたっていい、私を理解してくれてなくたっていい、私の身体でも私の虚像でもなんでもいいから欲望されたい。性的快感なんて一人だってどうにでもなる、だけど欲望されたいという欲望の充足には相手が必要だから。

私から欲望するためには、相手に欲望される必要がある。
買春する側(欲望する側)には、まず、「私を欲望してほしい」という受動的で従属的な欲望の存在が前提として存在し、その欲望を充足させる為には相手が必要となるというわけです。

なるほど。確かに、買う側のみ注目したらそうでしょう。
でも、サービスとお金がやり取りされる場において、その関係性を見ずに、一方だけ見て他方も決めてしまうのはまずいのではないかと思います。
ここで、私は、欲望されることを欲望される相手、つまり売り手に注目します。
売り手というものは、賃金を代償として買い手に欲望を抱くことが求められています。ピギフェミさんの前提では「私から欲望するためには、相手に欲望される必要がある」わけなのですが、買い手にとっては「私は相手に対して欲望したいから、お金で相手の欲望を満たす代わりに、相手に自分を欲望してもらう」、売り手にとっては「お金に欲望している私に向かって、買い手が「欲望されたい」欲望の充足を金で依頼するから、私は金をもらって買い手に欲望してあげる」わけですよね。売り手と買い手とではこの一連の行為の動機となる欲望の方向性が異なる。一方は性という欲望の充足、一方は賃金に対する欲望の充足。よって双方で交換されるのが、お互いの欲望(実際にうまく交換されているかは今は問題にしません)。

だから、のざりんさんが以下のようにすっきりと述べていますが、

私が対象(subject)を欲望(passion)するとは、根源的には受動的(passive)で従属(subject)的なものにならざるを得ない。主体が客体を欲望するのではなく、客体こそが主体の欲望を呼び起こすのである。

一見納得しそうになってします。しかし、これまでのピギフェミさんの話は、買い手側からのみ、しかも性に対する欲望のみに注目していたから、客体が主体よりも優位にあるように感じられたわけです。私は、従軍慰安婦など過去の買春システムを考えると、客体そのものが、あたかも主体性を持って、主体の欲望を喚起したのではなく、客体は主体の自らの欲望の充足の為に作り出されたのではなかったか?と思わずにはいられないのです。だから、性に対する欲望にのみ注目してよいものかしらと思うわけです。客体は「性」という優位性を主体に対して持っていますが、主体は「金」という優位性を持っているのですから、両者あわせて考えたい所です。欲望の受け渡しだけを見ていては、その欲望を喚起した「金」を不問にすることになり、そんなところで女性の優位性が強められても…と思います。足元をすくわれてしまいそうな気がします。


乱文ですみません。