学問コンプレックスは今も尚

入社当時、
「大学院生っぽくないね」
と社内外で言われるたびに、大学院生に偏見を持っている人の鼻を明かしたと、嬉しく思ったものです。

今では
「大学院生っぽくないね」
と言われると複雑な気持ちになります。
なぜなら、大学院生らしい特徴が"学問においては"全くといっていいほど無いからです。

実際、昨日「リベラリズムって何?」と社内で聞かれて、適当にお茶を濁してしまいました。
それは、まず私には学問についての知識が無いからです。また、政治的立ち居地においても「左」「ラディカリズム」に傾向していた以前の私からは考えられないほど、そういったものに無自覚になっているからです。全くといっていいほど、社会に対して無垢な状態です。

でも、ひとつだけ「それはそれでよかった」、と思うことがあります。
それは、私は学問、思想を自己正当化の目的に使用することが無くなったからです。
学問、思想が自己を正当化してくれるものではないことを、つまり外的な要因によって自分の行動の言い訳はできないことを、社会に出て初めて身をもって体感したからです。今頃そんなことに気づいたのか?と笑われても仕方ないです。私はそれだけ弱い人間でした。正しいことは、全て、アカデミックの中にある、わけではありません。でも、私は、学生時代はずっとそう思いたかったのです。そして、つい最近、その呪縛からやっと解放されました。

こうして、社会に出て、呪縛がとけ、私は自らの自尊心を他者からの承認(=学問)を得ることなく、自分で作り上げる他なくなりました。あまりにも低い自尊心、自己愛は、様々な形で「他(者)のせいにする」ことで辛うじて維持され、それと同時に、人を傷つけ、人に迷惑をかけました。苦悩の日々が続きました。


さて、最近頻繁に"私の問題は、すべて私の性格に起因する"ということを、社内で言われ、そしてそのための取り組みが行われます。
今ではその考えに「反抗しません」。自分で自分の言動の責任を引き受けることの重さ、そして自己をコントロールし全てを自己の手におさめることの難しさを感じながらも、見るはずの無かったものを「見せてもらえる」ことに「マゾヒスティックに」期待をしています。