「らしさ」

上の記事にもあったけれど、
ジェンダーフリー批判に一つに、男らしさ、女らしさを否定すべきではない、というものがある。
男らしさ、女らしさとは厳密にどの範囲を指すのかは人それぞれだと思うのだけれど、外見上のこと、身振り、行為、話し方ということは確実に含まれると思う。
それ以上のことについては、従来の役割分業を支持する人、従来の家族の保存を願う人などなど、それぞれの考えがあるようだ。

それにしても、ジェンダーフリー批判は、ジェンダーフリーが男女を無性にする思想だと思っているのかしら?それとも女を強くする思想だとでも?
そうじゃ無いと思うのだけれど…。


性別や性別が与えるイメージによって生きにくさを感じている人がいる。
体系や顔の雰囲気に合った服を着ればいいんじゃないの?
好きな色をきればいいんじゃないの?
仕事したいならすればいいんじゃないの?
ということ。
人に性別についてとやかく言われずに行為できる社会への試みではないかと思う。「それぞれの性にに見合った『らしさ』がなくてはならない」、という強迫観念が一般的になくなることが必要だと言っているのではないかと思う。

一方で、私が「女」というコードを取りさらったら、何になるのかな?とも思う。よりどころが無いように感じる。なぜか?人は社会の中にいるからではないだろうか。社会の中で生きる限り、男と女がいる限り、性別は常に確認され、付与され、内面化するという、決して排除できないものであると思う。もしも性同一性障害であったとしても同性愛者であったとしても、やはり同様の確認作業が伴うだろう。人は社会的な動物であるというのは本当だと思う。

常に私たちは性別(ジェンダー)を抱えて生きていかなくてはなないのだろう。
でも、そのジェンダーを理解し越えたところで、対話はできないものかと思う。それには「男・女らしさ」ではなく「個性」「そのひとらしさ」という言葉で個人を示すことが好ましく思える。個々人を中立的に扱うことができるし、本人の歴史を含めまるごとの評価が可能になるからだ。

長々と書いてしまったが、要は『女』の私ではなく『私』を見なさい!ということ。