気質と役割について。(『性の政治学』 ケイト・ミレットを参考に)

この本は読みやすい。

この中で、『男女双方の最善をはかり、社会に利することを願って』男女の格差に言及するジョン・スチュアート・ミルとジョン・ラスキンのアプローチの仕方の違いを比較している。
ミルは政治的現実主義者として女性の置かれた状況を分析し『世間一般で女性的性格とみなされているものは、高度の人工栽培の予知できる結果に過ぎない』と言い、ラスキンは『人間の本性の中にある非理性的要素』(本能、生物学的差異)をもちいて、『両性が互いに補足しあう反対物であること』を断言し、男女の役割、気質の伝統的なステレオタイプにしがみつく。

そして、性の政治学の筆者は、ミレットのアプローチ方法を批判する。
ちょっと前の日記にわたしが書いたように、両性の違いについて『生殖体系、第二次性徴、オルガスム能力、発生学的、形態学的構造を別とすれば、両性は生得的にすべての点で同じ』であり、”両性が互いに補足しあう”といっても『それぞれ固有のものとして交換しうるのは、精液と粘液だけであろう』という。社会的、気質的差異を生物学的相違によって正当化することは不可能といえる。

そしてラスキンは男女の気質に基づいたすみわけ(女は家庭、男は仕事)によって社会がうまく回っているといい、故意に慣習と自然なこととを混合し、必要と必然を混合している。
これに対してミルは
『全くの話、不自然とは、ふつうそういう習慣がないことを意味し、日常的に行われていることはすべて自然に見えるものである。女性の男性への従属は世間一般の習慣であるから、いやしくもこれに背反することは全て不自然に見えるのも当然である』(『女性の隷属』)
と、慣習がもたらす「自然」を指摘し、うまく反論している。

ということで、「男」「女」それぞれに固有の気質なんてないし、それに基づく適性なんぞない、社会や環境が特性を作っているのだと言いたいのだけれど、
環境が人間の性格に及ぼす影響に関する法則がわからない以上、なんとも判断しかねないのが現状であるよ。

だから、そうだから、安易に「自然」や「本能」を持ち出して適性を語るのはやめようじゃぁないか、というのがわたしの考え。