ポストモダンが分からない

先日、夜間セミナーでの発表後、教授から「あなたの言う『ポストモダン』は何を指しているの?」と質問されました。フェミニズム研究における、「ポストモダン」的視座とは何か。かなり困った質問なのですが、論文中に「ポストモダン」という言葉を入れたい衝動を抑えられないので(先行研究の動向上)、一刻も早く答えを出さなくてはなりません。しかし、そもそも私にとって、「ポストモダン」そのものは非常に曖昧で常に不安を感じるキーワードですので、自身で納得できるような理解をしたいと思っているのですが…
概論的な本が手元になかったので*1

  1. ポストモダン」という言葉はどのような文脈で用いられているのか?という素朴な疑問から、この言葉の使用のあり方から規則性が見出してみようと思った。最近の”「ポストモダン言及日記”から、テクストごとごっそり取り出して検証してみる。
  2. リオタールを研究している友達に聞く。

ということをしました。
ま、結局後者の詳しい説明と、後から見つかった本で、「ポストモダン」について大体分かったのですが、前者で抜き出したものが結構面白かったので、(「代理母出産」のポストモダン的解釈とか)ここに置いておきます。

抜書きとコメント

私はポストモダニストと自認したことはないけれども、本来認識とは理論の操作によって招来されるものではない。当人の生き方の帰結としてしか認識は規定され得ず、机上の調整は世界観の土台の上に構築される。土台としての世界観の招来は、個人のリライトし得ない生と、それへの意識的な再規定という弁証を一切とする。いかなる知識人といえども。

認識とは理論の操作の帰結ではなく、当人の生き方の帰結として規定。研究者側のコンテクストを考慮する、方法論側からのタイプのポストモダン

彼らは、指導者なのである。
愚かだと罵倒する対象の衆愚にさえも、本来的に責任を負うべき立場にあるのだが、道義的に負うべきそうした責務の観念すらも、平準化の中に知識人さえも飲み込まれて、自負が自負として成立していない。
ポストモダンの極限にあっては平準化こそが前提とされるべき善概念であり、階級から切り離された個人としてそれぞれが海流の中の島々として孤立している。
知識人やマイスターに対する敬意が平準化の中で相対に晒され、失われているのと同時に、同じ作用を受けて、知識人にも高貴なる者としての責務に対する自負が失われてしまっているのではないだろうか。

ポストモダンの極限は平準化?イーグルトンの言うように社会主義になるのかしら。

クラシックの演奏やレコードではなく、クラシック批評そのものを批評するという今までありそうでなかった本。野村光一、吉田秀和宇野功芳の文章はもちろん、朝日新聞の記事や交響楽団のパンフレットにまで批評眼を働かせ、一刀両断してしまう様はなかなか痛快だ。クラシックについて書かれたものを全て批評として読んでしまうのは、ポストモダン的なのかも。

近代のものを批判するのがポストモダン的?

ポストモダン、ポスト近代とは、ポスト西洋文明を意味するだろう。ユダヤキリスト教的西洋文明の終焉を意味するからである。ポスト云々は、消極的ではある。ネオ・ヘレニズム(東西融合主義)とは呼べるだろう。

ポスト西洋文明を意味する?消極的?

これは前回のエントリともつながるんだろうけど、日常生活を送っていくときには、ポストモダンなんて着てないんじゃね?とかって個人的には思う。何かまだ、大きな物語って存在しそうな気がする。けど、では具体的にその「大きな物語」は何かっていうときに、少し突き詰めて考えていくととたんにそれは霧散してしまうような気がする。評者はそれを「自由・平等・進歩」というものの反省的な促進のようなものに見出しているんだけど、本当にそれでよいのかなぁ、というのが個人的な感想。
より敷衍的に言えば、やっぱり分かんないんよね。
この評者も言っているように、より妥協的に言えば現代は結局「両義的で曖昧な時代」なんだろうし、加えてそれ自体はそもそも「決定不可能」な事柄ではないんだろうか。

日常では分からないポストモダン。「大きな物語」も把握しにくいもの。「両義的で曖昧な時代」。語尾が推測になってしまうのは、ポストモダンが曖昧だから?

163:萌え絵根絶委員会会長◆ysiU/AwJ/6:2006/07/18(火)23:54:38
>>159
近代的道徳観だ、という批判は予期していた。
だが、近代的な理性万能主義や啓蒙主義的人間観を批判するポストモダン的(つまり萌え的)な視点というのは、実のところ近代へのネガティブ定義、アンチテーゼに他ならず、近代的な道徳観に変わる新たな価値体系を何ら生み出していない。
評論のための評論、評論家の自己主張のためのマッチポンプ
結局のところ「大きな物語の消失」を自覚した俺こそが真に理性的、という主張に他ならない。
人間と動物を峻別するのが「知性」だという前提に立てば人道主義に反する点と、
快楽への耽溺に無批判な点で「動物的」と言わざるを得ない。

萌えにも通じるポストモダン。「近代的な理性万能主義や啓蒙主義的人間観を批判するポストモダン的(つまり萌え的)な視点」。新たな価値体系ではないのは、リオタールもモダニズムの地平でポストモダニズムを捉えているのだから、当然な気がするけど。快楽に耽溺するのは「動物的」?

近代社会においては家族関係、特に親子関係の排他化が進められたといっていいだろう。カトリック文化圏では今でも代父(godfather)との関係が重視されているし、日本でも烏帽子親とか漿付け親という慣行があった。また、家を継がせるためではなく、政治的贈与としての(人質としての意味も持った)養子*8も少なくなかった。家族機能のアウトソーシングが進む中で、親子関係は純化してきたともいえるのである。それを象徴しているのが乳母という慣行の衰退であろう。社会の上層部の子どもは他人の乳で育つのが当たり前であったが、今度は母親自身の乳が強調される。乳母が衰退すれば、同時に乳兄弟も衰退する。だとすれば、「代理母出産」というのは、モダニティを特徴付けるブルジョワジープロレタリアートの家族の領域への侵入であると同時に、勝義においてポストモダンといえるのかも知れない。

近代における親子関係の純化。それを象徴する「乳母」という慣行の衰退。さらに、「代理母出産」が、労働における権力関係を家族空間にまで布置するという境界侵犯性に、ポストモダンを見出している。

ポストモダン。モダン?なにそれ?一応の意味は知っているけれども、現代のように、物質から人間からなにからかにまで流動化・多様化した現代で、「モダン」と呼ばれる存在があるのだろうか?
下らない。
私は引用も嫌いだ。論文の引用の意では勿論ない。文章や権威付けとしての「引用」だ。引用するくらいなら、私自身の言葉、私自身の理論で自分の意見を展開する。それが自身の学問に対する忠誠心のあらわれであり(決して、決して、名誉ある学者や権威ではなく、あくまで『学問』に対しての、である)、また自身の能力に対する尊厳である。自身の能力が、自身から生成されたものが他人に聞かせる価値のある意見である、と信じること、そしてそこまで徹底することが、学問に対しての誠実さそのものなのだ。それができない人間は、特にな文系の世界では、去るべきだろう。
私は「誰か」のコピーでもなければ、私は「誰か」の宣伝やでもない。私は私であり、私しか創造できないものを創造する。
自分の言葉、自分の意見、自分の考えを論理で研ぎ澄まし、それを発表することこそが、「発展的学問=研究」ではないのだろうか?
権威の引用は「虎の威を借る狐」となにが違うのか。
いつまでも受け売りの言葉だけで「したつもり」になっているのであれば、それは救い様のない馬鹿と紙一重ではなく、あきらかな「馬鹿」だ。

「私自身の言葉、私自身の理論で自分の意見を展開する。」「私は私」というけれど、それをもポストモダンは問題化しているのではないでしょうか?「引用」するという行為は、創造性を欠く行為ではないですし。なぜ、ポストモダンを嫌がるのでしょう。よく分かりませんでした。余談だけど「引用」とは、先行研究者に敬意を示すことではないのかしらん。文章や権威付けとしての「引用」なんて、「引用」じゃないよね。なんだろう、後ろ盾?

私への教訓

ポストモダンという言葉が曖昧というより、その言葉が使われている周囲の文脈というか、言葉と言葉の、文章と文章の関係性が分からないものが多かったです。ポストモダンといったときに一貫性を持たせることは、非常に難しいように思いました。各々の研究分野におけるポストモダンとは何か明確にし、単語レベルでの慎重で適切な語句の選択が必要なのかもしれません。
また、ポストモダンという概念や使われ方が、研究分野によって違うので、今日ここで部分的に抜き出してしまったことにより、部分的に意味の通じなくなってしまった文章もあるかもしれません。そのようなことがありましたら、大変申し訳ありません。

*1:ちゃんと探したらあった。美学に偏っているけど。田辺秋守『ビフォア・セオリー 現代思想の争点』とか