妖艶な女になりたい

友人が突然そんなことを言うものだから、ちょっと吹き出してしまったではないか。
そうなのだ、なぜか妖艶でミステリアスで知的な日本人女性がモテる、大学院生コミュニティ。
実存する妖艶な女性を僻んでいるのではなくて、どうしたら妖艶になることができるのか、我々にはあまりにも程遠い性質ゆえに、疑問を口に出さずにはいられない。

既に「妖艶」という言葉には、「あでやかで美しいこと。男性を惑わすようなあやしい美しさのあるさま。(三省堂提供「大辞林 第二版」)」というように、男性に対して誘惑する意が含まれている*1。私たちも、「妖艶」とは一体「何か」について、共通認識を形成したわけではないけれども(だって分からないし)、男性を惑わす美しさについて話をしていた。

今、振り返ってみると、私と友人は「妖艶」を考えるにあたり、女性(の美しさ)が男性に働きかけるという方向から考えをめぐらしていた。つまり、「妖艶」の理由を女の身体そのもの、そしてその内部に求めるような、心理主義的な方向性で考えていたのだ。なるほど。それではいつまで経っても「妖艶」とは「何か」が分からない。それは例えて言えば、砂漠の中であるはずの無いオアシスを追いかけるようなものだ。

だから、考えるべきはエコロジカルな自己、環境と相互作用する身体である。とりわけこの話では、私が私に向ける「自意識」そのものではなく、それが発生する契機となる、私に向けられた「視線」だ。

イギリスの美術評論家J・バージャーは、男性は女性を客体化して「見る」視線をもつ一方、女性は「見られる」視点と、”見られる自分”を「見る」男性の視点とに引き裂かれ、常に自己を対象化するという。まさに、女性はパノプティコンの中の囚人そのものである。
妖艶であれであれ、かわいくあれであれ、女性性の期待に応えるということは、男性や、男性の視線を持つ者の視線の内面化を迫られることである。
とすれば、私と友人の言う、男性を惑わす妖艶な女性とは、男性を惑わす「妖艶」という言葉を内面化している女性なのであって、それ以上でもそれ以下でもないことになる(当然のようなことを言っていますが)。そして、「妖艶」とは「何か」に応えるとすれば、男の欲望を鮮やかに映し出す鏡なのだと、私は思う。

ただし、妖艶な女性であっても二種類あり、
完全に男の視線を内面化してしまった女性か
自分がパノプティコンの中の囚人であることを知っていて演じる女性であるか
では大きく意味が違う。
しかし、女性性の中でも、とりわけ妖艶という性質においては、(妖艶自体が男を惑わす性質だから)この視線を内面化した自己に対する自意識の有無の違いは男の視点を持ってしてでは分からないのではないだろうか。


……うーん。私ならどちらにもなりたくないな。

*1:男性を惑わす対象(妖艶を身にまとうモノ)は女性に限らないようだが。