立川健二の誘惑論と、限界。

立川健二の『愛の言語学』を読んだ。
言語学をベースにした<愛>についてのエッセイ集で、『誘惑論』(1991)の続編的な性格を持つ。アマゾンでは売られていないこの本なのだが、言語学の書籍の少ないお茶大図書館に、なぜか置かれていた。そうか。「愛」と「言葉」(「愛の言葉」/「愛」という「言葉」)は永遠のテーマだからだね。


私は、結婚という制度を言語行為(なぜなら、結婚はまず「約束」という言語行為から始まるから)として捉える立川のやり方*1には賛同しないものの、ソシュールの≪交通(インターコース)≫の概念、つまり共同体と共同体のあいだにコミュニケーションをひきおこし、共同体を外部へと開いていく力を、異質で固有な他者と、すなわち絶対的な差異を持つ固有名詞同士で関係性を持つ「恋愛」という行為においても見出すことができると想像してみることは、とてもおもしろいことだと思った。こう考えることの良さは、恋愛の幻想を払拭できるということにある(私の意見ですが)。

また、立川は、≪誘惑≫という言語行為、≪誘惑主義≫という生き方を出してきて、たとえうまくいかなくてもコミュニケーションをして他者との関係性を結びましょう、すなわち自分から人を愛しましょう(贈与)、さもないと、期待するばかりで人から愛される(交換)ことはありません、と言う。そういった、異質な他者と関係を結ぶことを、口説きに限らず広く≪誘惑≫というんだけど、そうすることで、お互いの共同体を超越した別の場所で他者との深いコミュニケーションが可能となる、そのきっかけとなる。そして、このことは、自閉主義に陥ることなく≪他者≫という回路のなかで、複数の他者たちのナルシズムを解放することにも通じるような愛のネットワーク≪インターコース≫となりうるのだと述べる*2
さらにさらに。その上で立川は、一者との恋愛にとどまることなく「広範囲な交通(インターコース)のネットワークをつくりはじめてみたらどうか。複数の、いくつもの愛の関係を生きはじめてはどうか」と提案している。だが、私には、このことは何を目指しているのかがさっぱり分からない*3。いやね、そんな私はバカじゃないんだけど、この効能は分かるのだが、だから、そのあとどうしたいの?という部分がわからない。複数の愛の関係といいつつも、結局立川は、「恣意的」な選択、すなわち結婚をするんじゃーん!と矛盾を感じずにはいられないのだ。どうしてそんなに結婚が素敵なのかね?言語行為的に。

この立川という人。言語学といっても、どこか、飛躍的で、感覚的で、感情的で、理想的で、まるで私を見ているよう。そして、そもそも、研究対象が、決して具象化できない、主観を逃れられない「愛」にあることが問題であって。純粋に言語に接しているつもりが、全く、恣意的なのである。
だから、自分でもあとがきで「エッセイ」と書いているのだろうけれど。まぁいいや。

あとね。
余談だけど、WikiPedia「立川健二」を見ると

学部生対象のゼミ「誘惑論セミネール」、また、現代言語論研究会を主宰し、論文集『PHILOLOGIE』を同会で出版。同大学助教授時代に『愛の言語学』(1995年)を上梓。その一方で、会の運営については自己中心的だという指摘もあり、賛否両論が出て退会者が続出し、人間不信に陥る。その後、文教大学に移り、同会も休会状態に陥る。同時期、自身が教育職には向いていないことを自ら悟り辞職、評論家に専念、保守思想に目覚め「ポストナショナリズムの精神」を上梓。

という転換期が、『誘惑論』の出版以降に訪れていることを考えると、「わたしの場合で言えば、大学での教育という場での学生たちとのかかわりが誘惑の実践である。」「『教育とは誘惑である』と確信している」(『愛の言語学』P56-57)と言い切っていたあの立川が、その後、実践と理論との間でどんなに苦悩したかが容易に想像できて、切なくて、切なくて。そして愛しく思わずにいられないのだよ。
このような、彼の「人生」というテクストも、彼の意に反して私を誘惑しているわけであって、何が誘惑になるかは誘惑者には分からないということを、誘惑が成功しなかった立川に代わり、私は強調したく思う。誘惑者は、誘惑の不確実性とその可能性にかけてみたいから誘惑するのである。そうでなくて、立川のように誘惑に対して確実性を求めるのならば、彼の論を引けば、「関係性」とは別のもの(贈与の時間を待たない、見返りを期待する)を知らず知らずのうちに求めてしまったのではないのかと思う(ならば、前言撤回。)。

誘惑論―言語と(しての)主体 (ノマド叢書)

誘惑論―言語と(しての)主体 (ノマド叢書)

*1:結婚は、その制度がどうであれ、共同体すなわち恣意的なシステムに絡みとられてしまう退屈な風景ではなく、共同体という恣意的なシステムの中で、その恣意性に反して選択をすること、すなわち”飛躍”とでも言うべきことだとし、盲目的に飛ぶこと、弾むこと、そして歓楽することだと言う。あまりにもユートピア的な発想だし、そもそも言語と行為は関連付ける一方で、社会については切り離してよいのかしら?それこそ恣意的ではと不思議に思った。

*2:愛のネットワーク?? 「関係性の網の目」で考えると言った岡野八代を思い出します

*3:きっと、筆者は、ポリガミーでありながらも二者で完結(結婚)してしまったことで、対幻想について苦悩しているんではないのかと、勝手に想像した。